発酵

森有正エッセイ集成1所収「流れのほとりにて」より

そして今僕の心には、アンリ・ファーブルの言葉がしきりにきこえて来る。「私の生涯は殆んど全部、特に最後の三十年間というものは、絶対的隠退と完全な沈黙との中に過されたからである」(ルグロ著「ファーブルの一生」椎名其二氏訳) (p441)

火を極度に弱くして、自分の中の発酵を十二分に続け、自ずからな沈殿と結晶を待たなければならない。それがどういう価値があるのかを知ろうとも思わない。僕の生命が一つで、それ以外になければ、それでこれが経験というものならば、仕方がないではないか。僕はそれに徹することにした。何か生甲斐のあることがあるとすれば、僕にとってはこれが唯一の生甲斐のあることである。他人は他人である。蜜蜂や蟻は、自分のやっていることが価値があるかどうか考えたことがあるだろうか。(p453)