<1/25> 一昨日のエントリーが神崎七段の「ある棋士の日常」(1/25)で取り上げられた。
http://www2.diary.ne.jp/user/53924/
「読んだ後に「長考」した文章: 読んだ後、しばらくは、長考。試験的なアイディアや手筋も浮かぶ。無償や有償にて棋譜を公開する作業にたずさわられている方々や、朝日紙の記者のかたとも、一度お話してみたい話題だと思った。先ほど浮かんだうちの試験的なアイディアのうちのいくつかは、今までにHPを開設してから試みたり、考えてみたりしたこととも共通する部分もあったので、きっと長考になったのだろう。」
一昨日の僕の感想・問題提起は、2001年7月6日に箱根「ホテル花月園」で行なわれた羽生対郷田の棋聖戦第三局を、産経新聞の招きで僕自身が生で観戦した経験がベースになっている。結論から言えば、一局をめぐって「控え室で考えられた情報量、解説会場で語られた情報量、感想戦で語られた情報量」の大半が、その将棋が棋譜と観戦記だけに凝縮された時点で、ごっそり失われていることに愕然としたということだ。
この日は立会人が石田九段、副立会人が久保七段(当時)、そして森九段も午後から控え室に顔を見せた。局面があまり動かない序盤でさえ、「ここでこうやればうんと激しい攻め合いになる」という具合に、プロ棋士たちの手にかかると、一局の将棋の一手一手の意味の深い解説はもちろん、その周囲に果てしなく広がる将棋の潜在的可能性空間みたいなものが次から次へと盤面に並べられていった。中盤の研究はさらにシリアスでスリリングで面白かったし、棋風とは何かというようなこともわかったような気がしたし、終盤の研究の複雑さには、僕のようなヘボにはついていけなかったけれど感動した。最後には、久保さんが解説会場で披露した即詰みを、一分将棋が続く最後の最後に、羽生さんが逃して負けてしまうという大どんでん返しまであった。そんな一局が終ったあとの感想戦で対局者二人によって語られた内容は、控え室や解説会場で語られていた内容とはずいぶん視点が違っていたように思えた。
一局の持つ情報量の豊富さを丸一日シャワーのように浴びるという貴重な経験をした僕は、その貴重な情報がどこにも記録されることなく失われていくことに、言いようのない哀しさを感じた。
こんな経験が「棋譜の派生的(デリバティブ)な価値をオープン環境で追求できないだろうか」という一昨日の感想の背景になっている。
控え室と解説会場という閉じられた空間の中でのコンテンツを、インターネット上のオープン空間でのコンテンツは、必ずや凌ぐであろう。もしある棋譜が感動的なものなのであれば、より多くの人達の関与によって。
ソフトウェア世界のオープンソースは、コアになるコード(Linuxの場合はリーナス・トーバルズ)の回りに無数のネット上のオープンソースプログラマーが価値を付加する構造になっている。対局者がコアになるコードの提供者、多くの棋士やアマチュアオープンソースプログラマーという役割アナロジーがオープン環境下で生まれれば、棋譜の価値が全く違ったものに転化していきはしないか。そんなことを思うのである。