<1/30> 第22回朝日オープン将棋選手権本戦第13局 先▲中原誠永世十段△北浜健介七段
http://www.asahi.com/shougi/open22/k-honsen13-1.html
も、いま日経新聞に連載されている王座戦の屋敷・橋本戦も、とても面白い将棋だと思う。でもその面白さを観戦記は伝え切れていない。観戦記の筆者自身がいいとか悪いとかそういう問題ではなく、観戦記という戦前からある古いフォーマットが、一局の将棋という複雑な対象を記述するに足るフォーマットではなくなってしまったことが原因であるように思えてならない。そういう観点からインターネットとシステムの可能性を見直すべきである。
棋譜の価値を、棋譜自身と観戦記(観戦記がつく棋譜だって稀だ)に封じ込めることには構造的に無理があると知りながらも状況が変わらないのは、「棋譜露出の希少性をコントロールすることによって、新聞に紹介される棋譜と観戦記の価値を相対的に高める」という縮小均衡的発想ゆえである。
いま将棋の世界では、序盤の研究が進み、定跡の体系化が日進月歩である。一方、終盤の限定的局面においては、コンピュータの読みがトップ棋士を凌駕するという現象が見られるようになった。それでも、棋士棋士による対局に魅力があり、棋譜に価値があるのはなぜか。その真の価値の所在を明らかにした上で、その価値を「棋譜デリバティブ(派生物)」として表現する努力をしてほしいと思う。顕在化しない価値は、存在しないのと同じなのであるから。そしてそのときに有効なのが、重ねて言うが、インターネットとシステムという新しい表現メディアなのである。
「読みの技法」(河出書房新社)という本が僕は大好きで、何度も読み返している。この本では、主として中盤の「ある局面」をめぐって、羽生・森内・佐藤の三人が自分ならこう判断し、こういう手から読み、最終的にはこういう手を選ぶだろうというようなことを思考している。その思考の中身を島朗が一冊の書にまとめたものである。局面はたったの25しかないのに、局面をめぐる判断の背後に人間の個性というものが現れて、実に面白い読み物である。
序盤研究の体系化とコンピュータの進歩が相乗効果を起こす次の十年、二十年の間に、コンピュータと人間の違いを突き詰めていくと、結局はこの本で語られるような「盤面を総合的に見渡したときの人間の構想力」というところだけに、棋士の価値のエッセンスは集約されていく可能性もある。ふとそんな夢想もしたくなる刺激的な一冊である。
すべての棋譜の重要な局面のすべてで、こうした深い議論が論理的には可能である。でもそんなことは一人の観戦記者(特に将棋がたいして強くない人)には絶対にできないし、観戦記という表現フォーマットでは不可能。だから、棋譜というコア・コードのまわりに、たくさんのプロ棋士やアマチュア強豪が自由な発想を書き込む「棋譜オープンソースデリバティブ」の可能性を感ずるのである。
そしてそのとき、インターネットの場合は紙メディアと違って、システムをちょっと工夫すれば、「このときにこう指せば」というような追加コメントは、読むためのただのテキストフォーマットではなく、システムに意味のあるコードとして表現できる。誰かの指摘した仮想局面に対するコメントだって付加できる。そういう思考の航跡がすべてデータベース化できるばかりでなく、ある局面から自動的に仮想局面まで行ったり、その仮想局面からコンピュータと対局できたりもするようにできる。そうなれば、一つの棋譜をめぐって、全く新しい価値が付加されることになる。
クライアント側にシステムを置くのではなく、棋譜の周辺にこんなASP的なサービスを構築して、それをホスティングするのが「将棋連盟と新聞社の共同事業」というようなことだって構想可能である。システム構築をオープンソースでやることにしたら、将棋好きのエンジニアによって、素晴らしいシステムがさっさと作られてしまうかもしれない。

http://d.hatena.ne.jp/mozuyama/20040601#P20040601UMEDA
で、本サイト再出発について取り上げていただく。早いなぁ。有難いことです。「読めなくなった将棋関係の記述が部分的に再録されています」なんて書いてくださっているので、もう少し「雑記帳」から過去の将棋関係のエントリーを再掲することにする。