読んだ本について書くこと

ブログをずいぶん長いこと続け、スタイルの試行錯誤をあれこれと繰り返してきたが、「読んだ本について書く」スタイルだけは、まだ発見できずにいる。なぜそれがうまくいかないのか。そのヒントが保坂和志「小説の自由」

小説の自由

小説の自由

の中にあったので、膝を打って同意した箇所をまず引用する。

だから小説は読んでいる時間の中にしかない。音楽は音であり、絵は色と線の集合であって、どちらも言葉とははっきりと別の物質だから、みんな音楽や絵を言葉で伝えられないことを了解しているけれど、小説もまた読みながら感覚が運動する現前性なのだから言葉で伝えることはできない。
批評家・評論家・書評家の仕事は「読む」ことだと思われているがそれは間違いで、彼ら彼女らの仕事は「書く」ことだ。音楽や絵が言葉で語れないのと同じように、彼ら彼女らは書くものが、自分が読んだ小説と別物にしかなりえないことを承知で、それについて仕事として「書く」。「読むだけでは仕事にならないじゃないか」と言う人がいるかもしれないが、仕事にしないで「読む」人がいる。読者とはそういう人たちのことだ。
批評家・評論家・書評家は、書くことを前提にして読むから、読者として読んだと言えるかどうか疑わしい。書くことを仕事としない読者でも、最近はインターネットで自分だけの書評サイトを持ったりすることもできるから、その人たちがどこまで読者として読んでいるかもまた疑わしい。書くことが念頭にある場合、(略) 読みながら現前していることへの注意が弱くなる可能性が考えられる。(p74)

ほんの一部の人を除いて、ブログで「読んだ本について書こうとする」大半の人は、この引用文中で保坂和志が定義するところの「批評家・評論家・書評家」ではなく「読者」なのである。
僕などはこの文章を読んだあと、自分の専門以外の本のことで「批評家・評論家・書評家」まがいのことをブログで書きたい気持ちなどもともとこれっぽっちもなく、ただただ「読者」でありたいのだ、ということに改めて気づいた。引用部最後の「書くことが念頭にある場合、読みながら現前していることへの注意が弱くなる」というのは全くその通りなのである。「読み終わったらブログに何を書こうかな」というような邪心など全くないほうが読書はうんと楽しく充実する。そして、そういう充実した読書を終えたあとに、何かその本について「書く」必要など全くないのである。
でも、その本を素晴らしいと思ったり、面白いと思ったりすれば、「そういう最低限の感想だけでいいから誰かに伝えたい」という気持ちを持つのは自然だ。その自然な気持ちだけを大切にすればいいのである。その原則を忘れずに、「読者」として、本の存在を淡々と紹介することが、ブログで「読んだ本について書くこと」の本質なのではないだろうか。

無為と待機

数日前、たまたまペアプログラミングの話をいろいろ読んでいて、ふと「ぐずぐすして何もしないでいられる時間」の「価値」を思って、堀江敏幸「河岸忘日抄」を紹介した。

河岸忘日抄

河岸忘日抄

それで、今日たまたま調べ物をするために過去のダイアリーを順に読んでいったら、堀江氏が中央公論04年11月号に寄稿した文章の中の心に残った部分を、去年の12月14日のダイアリーで言及しているのを発見(「過去の自分」は他人である。本当に)。
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20041214/p8

日々の反復のなかで蓄積されたなにかが偶然の作用でとろとろと溶け出し、受け身が結果として積極的な意味を持ちうる無意識のトランスになりたいとつねづね願っている私は、こういう状況になるともはや断ることができない。言いたいこと、書きたいことはきっと身体の中に眠っているのだろうけれど、それは仕事が終わった段階でしか見えてこないのだ。なにかが起こるまでの長い待機に耐え抜く意志と、それを禁欲的ではなしにだらだらつづけて飽きないある種の鈍さを備えた人間こそ物書きと呼ばれうると考えている者として、その理想に少しでも近づくために、一日一日を「緊張感のあるぼんやり」のなかで過ごしたい。鈍さはこの経験とともにさらに鍛えられ、なにかをかならず呼びさましてくれるのだ。(略)
数多くの偶然と、偶然を引き寄せるために費やした濃密な無為の、待機の時間が、この作品集のなかにはつまっている。それをごく私的な意味あいにおける「奇蹟」と呼んだとしても、咎められることはないだろう。

この文章はたしか、賞を取った「雪沼とその周辺」

雪沼とその周辺

雪沼とその周辺

について書かれたものだったが、この「河岸忘日抄」という小説も、この引用部分にあるような著者の知的生活から生まれた作品であることが実感できる。

刑事コロンボ コンプリートDVD-BOX

「1話あたり500円くらいの計算になるのでお得ですよ」みたいな話をどこかで読んで、酔った勢いで注文した「刑事コロンボ コンプリートDVD-BOX」。

今年はS.F.ジャイアンツが不甲斐ないこともあって、ここのところ1日に1話ずつ見ているが、製作から30数年たった今見ても相変わらず面白い。科学捜査の進歩に慣れた目からはちょっと違和感を持つこともあるが、全体としてやっぱりよくできている。1970年代に圧倒的人気をほしいままにした理由がよくわかる。シリーズ化第一作の監督が、若き日のスピルバーグだなんてぜんぜん知らなかった。
アメリカに今住んでいる者の感想としては、1970年代アメリカのシーンを見て、今とあまりにも変わっていないものが多くて興味深かった。コロンボものは、犯人が豪邸に住んで別荘も持っていることが多いけれど、アメリカの豪邸や別荘ってのは、たたずまいも内部も、ほとんど30年前から変わっていない。またスーパーマーケットの中も、これは驚くほど何も変わっていない。昨日見た作品の中に出てきたスーパーのシーンなんて、今の「Safeway」をそのままロケしたのかと錯覚したほどだ。置いてあるものも陳列の仕方もほとんど同じ。アメリカという国では、ある種のものは、あるときから何も進化しなくなるのだ。