無為と待機

数日前、たまたまペアプログラミングの話をいろいろ読んでいて、ふと「ぐずぐすして何もしないでいられる時間」の「価値」を思って、堀江敏幸「河岸忘日抄」を紹介した。

河岸忘日抄

河岸忘日抄

それで、今日たまたま調べ物をするために過去のダイアリーを順に読んでいったら、堀江氏が中央公論04年11月号に寄稿した文章の中の心に残った部分を、去年の12月14日のダイアリーで言及しているのを発見(「過去の自分」は他人である。本当に)。
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20041214/p8

日々の反復のなかで蓄積されたなにかが偶然の作用でとろとろと溶け出し、受け身が結果として積極的な意味を持ちうる無意識のトランスになりたいとつねづね願っている私は、こういう状況になるともはや断ることができない。言いたいこと、書きたいことはきっと身体の中に眠っているのだろうけれど、それは仕事が終わった段階でしか見えてこないのだ。なにかが起こるまでの長い待機に耐え抜く意志と、それを禁欲的ではなしにだらだらつづけて飽きないある種の鈍さを備えた人間こそ物書きと呼ばれうると考えている者として、その理想に少しでも近づくために、一日一日を「緊張感のあるぼんやり」のなかで過ごしたい。鈍さはこの経験とともにさらに鍛えられ、なにかをかならず呼びさましてくれるのだ。(略)
数多くの偶然と、偶然を引き寄せるために費やした濃密な無為の、待機の時間が、この作品集のなかにはつまっている。それをごく私的な意味あいにおける「奇蹟」と呼んだとしても、咎められることはないだろう。

この文章はたしか、賞を取った「雪沼とその周辺」

雪沼とその周辺

雪沼とその周辺

について書かれたものだったが、この「河岸忘日抄」という小説も、この引用部分にあるような著者の知的生活から生まれた作品であることが実感できる。