充たされざる者(カズオ・イシグロ著)

文庫版で939ページにわたる大長編。この夏、いちばん時間をかけた本だった。読み進めるにつれフィジカルに身体の具合が悪くなっていき(少なくとも僕にとっては、そういうおそろしい力を持った本だった)、しばし中断してはまた読むというふうにして、最後まで読み通すのに一ヶ月近くかかった。
カズオ・イシグロが「日の名残り」でベストセラー作家になったあと、これまでは世に出るためにリアリズム小説を書いてきたが、本当に書きたいものを書く権利ができたからにはこれを書くと言い、五年がかりで仕上げた大長編である。リアリズムの小説家とは二度と呼ばれたくない、これが最高の自信作だと著者自ら自負するが、発売後の評価は二分されたという。原題は「The Unconsoled」。翻訳書単行本は既に絶版になっており、このたび文庫で復刊された。

充たされざる者 (ハヤカワepi文庫)

充たされざる者 (ハヤカワepi文庫)

親しい友人への報告のためと、自分用の記録のために、この本については何か書いておこうと思い書いているのだが、特に広く人に読むことを薦めようとは思わない。小声で言うが、この小説には、僕がよく見る悪夢そのものが書かれていたのだった。939ページの全編にわたって、これでもかこれでもかと自分の見る悪夢が詳細に語られるというのは、おそろしくも素晴らしい読書経験であった。たぶん生まれてはじめてのことだ。
一人の人間が、さまざまな人と出会い、それぞれの人生と交錯しながら、一日二十四時間を過ごしていくとは、いったいどういうことなのか。その答えがこの本の中にはある。
親子、夫婦、師弟、兄弟、姉妹、仕事の依頼者と受託者、期待をかける人と期待をかけられる人。いくら近しい関係にあっても、他者を私たちは十全に理解することはできない。すべての人は全く違う記憶と、全く違うプライオリティを持って生きている。そういう他者とたとえば言葉を交わすとき、いったい本当には何が伝わっているのか。会話を通してそれぞれの脳の中に生起される映像や音がまったく異なるものであるとき、二人が物理的に会い、話していることに、果たして何の意味があるのだろうか。人が生きるとは、ただただそういう経験を積み重ねていくことなのだろうか。
私たちは皆、自分の生を生きることに精一杯だ。それだけで自分の時間の大半は過ぎ去っていく。その合間を縫って多くの他者と関わるのが生きることだが、他者の人生に深く関わろうとすれば、他者一人につき、それだけでほぼ無限の時間が必要になる。私たちは同時に複数の場所に存在することはできない。他者からの要請に費やす時間のプライオリティづけがぐずぐずになったとき、私たちの生はいったいどんなものになるのか。それが「充たされざる者」に流れる時間だ。しかしそれは、悪夢の中だけのことなのだろうか。ふだんのリアルの生だって、プライオリティを正しくつけていると私たちが勝手に錯覚しているだけの、「充たされざる者」と同じ一つの生なのではないのか。イシグロはそう問いかけてくるのである。
The Unconsoled (Vintage International)

The Unconsoled (Vintage International)