人間の一局 均衡の美

7月3日朝日新聞朝刊の将棋特集面「棋士の格かけた戦い 将棋名人戦 第66期順位戦」で、ファン代表ということで僕のインタビューが掲載された。棋力からいえばファン代表などおこがましい限りなのだが、ときどきこの欄で将棋のことを書いている内容が記者の方の目にとまったらしく、それならと記者の方とやり取りを始めた。「将棋を指す(そして強くなる)人を増やす」だけを「将棋の普及」と考えるのではなく、他のプロスポーツと同じように「将棋を見て楽しむファン」「将棋を鑑賞するファン」という莫大な手付かずの潜在ファン層を掘り起こす努力を将棋界はするべきだ、という僕の持論に記者の方が耳を傾けてくださったので、お引き受けした。
だから最初の質問も「自身のブログ(http://d.hatena.ne.jp/umedamochio)で将棋の話題をよく書いていますね」で始まり、「将棋の魅力を伝えるのにインターネットの活用を訴えています」という最後の問いまで、インタビューは国際電話で一時間以上、そして補足のために対面で三十分行われ、その間、「将棋を指す」視点でなく「将棋を見る」という視点での話に終始した。
「鑑賞の楽しみとは何でしょう」という問いに僕はこう答え、

人間同士が作り出す一局の将棋にはそれぞれストーリーがあり、均衡の美がある。1手指すごとに均衡が崩れそうになりながら、美しい可能性空間が最後まで続くのが素晴らしい

インターネットの活用についての最後の質問には、

新聞のようにスペースが限られたメディアと違い、インターネットはだれにでも開かれ、字数などの制約もない。新聞の観戦記で最高峰の戦いを紹介する一方で、どこにも掲載される見通しがない若手の人生をかけた一局をネット上で紹介するなど、それぞれの特色をいかした見せ方を望みたい。難解なプロの将棋をみせるには書き手の責任も重要です。

こう答えた。見出しには「人間の一局 均衡の美」とついた。
紙面には掲載されなかったけれど、新聞社は、自社が主催する棋戦の大半の熱戦譜を捨ててしまう(世に出さない)ことで「(棋譜の)希少性をコントロールする」という発想から脱し、最低限、新聞掲載のない棋譜については、ネット上で誰もが自由に、その棋譜を引用掲載しながら、その将棋について語ることを許すべきだと思う。それがファンの裾野を広げることになるし、結果として、タイトル戦など最高峰の将棋の魅力を広く知らしめていく一助になると思う。
そういう自由が開かれれば、自らブログを書き順位戦などの詳細な自戦解説をする棋士も増えるだろうし、アマチュア将棋解説者などが多数出現するようなことも起こり、将棋の魅力(それぞれの棋士の魅力)とはいったい何なのかについての、多様な議論や理解がなされていくのではないか。そうなると、そうか、どれどれ、ところで最高峰って何がどう違うの、という興味につながっていくはずである。

難解なプロの将棋をみせるには書き手の責任も重要

と言ったのは、本欄でもたびたび書いている「現代将棋の難解さ」を「将棋の強くないファン」に伝える文章の技術のことである。僕自身は最高峰の将棋の最大の魅力は「均衡の美」だと思っている。世界観の違う二人の棋士が、一手指すごとに「局面の可能性空間」を変化させながらも、一気にどちらかに形勢が傾くということなく、緊張感溢れた美しい盤面が序盤から終盤まで連鎖していく。その均衡の連続を美と感ずる。でもまったく違う楽しみ方をする人たちもたくさんいるだろう。たとえば、そういう活性化された将棋言論が、日々生まれるたくさんの棋譜の周囲で生まれれば、いずれ競争原理も働き、現代最高峰の将棋に対する現代最高峰の観戦記や将棋解説が、自然に生まれてくると思うのだ。
追記。インタビュー記事がネット上にアップされました。
http://www.asahi.com/shougi/meijin/66/interview.html