「羽生」(保坂和志著、光文社知恵の森文庫)

この本が届いたらすぐに読み、その感想文を「黙殺された名著がここに蘇った」と始めようと思っていた。そうしたら「文庫版のためのまえがき」冒頭で著者保坂和志が、

実際、九七年に出版されたときにも、一般の新聞雑誌ではいろいろ取り上げてもらったが、将棋界では一部の棋士の大絶賛を除いて黙殺に近かった。

と書いているではないか。
「黙殺」という激しい言葉は、あまりよく使う言葉ではないと思うのだが、著者も、一読者である僕も、この本から想起した言葉が「黙殺」だったとは・・・・・
この本は名著である。しかし出版後、本当に話題にならなかった。この本が提示した視点がさまざまな議論によって広がっていくようなことはいっさい起きなかった。保坂は続けてその理由を、

おそらく、「将棋が弱いド素人が書いた本などまともに読むに値しない。そんなやつに将棋の何がわかるか」と思われたのであろう。

思うにこの本が将棋界から黙殺された一番の理由は、棋士自身が聖域のようにしていた「読み」や「棋風」について、棋士でもない人間が棋士以外の人たちに通じる普通の言葉で書いてしまったことに反感を持たれたからではないだろうか。

と書くのだが、僕の読後感は少し違った。将棋の世界では作家が観戦記を書く伝統もあり、「作家が将棋を論じる」こと自身については寛容だと思う。
「黙殺」の本当の理由は、保坂が「事実に縛られるジャーナリストや学者」ではなく「作家」であるゆえ、将棋の発展の大きな流れの中で生まれた現代将棋の「新しさ」を、すべて羽生善治という一人の天才(当時二七歳)にのみ起因するものとして書きすぎたためだと思った。読みようによっては「羽生以外の棋士はすべて凡庸」と受けとめられても仕方ない面があり、羽生だけが少し神格化されすぎていると、僕も十年前に読んで思った。読者の一人ですらそう思ったのだから、プライドの高い棋士たちが「黙殺」した理由はそういうところにあったのではないか。ベテラン棋士たちの羽生への嫉妬も当然あったろう。ただ、十年の歳月が過ぎてこの文庫を再読してみて、そんな当時の読後感自身が薄れるほど、羽生の「新しさ」が歴史になりつつあることを感じた。
その意味でも、この本は単行本が出版された九七年よりも、十年たった今のほうがよりよく読まれる本かもしれない。羽生はその後も大活躍を続け、自他共に認める将棋界の大黒柱であるし、羽生がプロ棋士になったときにはまだ生まれてもいなかったほど若い棋士も誕生し、将棋界も世代交代が進んでいる。彼らは将棋を覚えたときから羽生が目標で、羽生の「新しさ」を空気のようなものとして育った。保坂が十年前に現代将棋の「新しさ」を「羽生」にのみ帰して描いたことへの反発は、そんな環境変化ゆえ、もうほとんどなくなっているだろう。
保坂は、

約一〇年経って読み返してみて、かなりいい線いっていると思う。

と自負するが、本当にその通りの、いま読んでも面白い将棋論の名著だと思う。「黙殺」という言葉が著者のまえがきにあったことの驚きから、そのことばかりを書きすぎた。
書名でもあり文中に多用される「羽生」という固有名詞を「現代将棋」という一般名詞に置き換えて読んでみるのも一興だ。そうすると今度は、羽生世代の出現と新しい考え方の浸透によって将棋界に起きた地殻変動についての、まったく新しい眺望をも、本書から楽しめることだろう。

羽生―「最善手」を見つけ出す思考法 (知恵の森文庫)

羽生―「最善手」を見つけ出す思考法 (知恵の森文庫)