嵐のような反応を読んで

Lingrイベントを終えたあとで書いたエントリーには、2日間で35,000を超えるアクセス。700を超えるブックマーク。トラックバック、コメントも大量に届いた。
CNET時代に「電車男」を紹介したとき(2004年6月)以来という気がする。賛否はともかく、これだけの強度で反応が届いたということには何か理由があるのだろう。じっくりと考えていきたいと思う。
ウェブ進化論」に対する反応は、世代や考え方によってものすごく割れていた。「ぜんぜん知らなかった」(上の世代)から「この程度の書き方ではぬるい」(若い世代)まで。怒り出す人から、わくわくする人まで。でも大切なのは「ウェブ進化論」で書いたような話で、始まった大変化が「終わり」になるはずはなく、まだ「ほんの始まり」に過ぎないわけで、今後さらに大きな地殻変動が社会に起こる。その程度と変化の時間軸に対して、意見の相違は当然いろいろあると思うけれど、大変化はほぼ間違いなく起こるというのは、センスのいい人達は皆、直感していることだろう。
ところで福澤諭吉は「文明論之概略」諸言の中で、幕末から明治への変化について「恰も一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し」と表現した。
近未来において、このあたりが「一身にして二生を経る」ような大きな境目だったねと、「2020年頃」を我々は振り返るのではないか、と僕は仮説を置いている。ネット登場が1994年とすれば今年までで13年。それと同じだけの期間がこれからたつと2020年になる。そのとき1980年生まれの現在の26-27歳が40歳になる。僕の同世代はそのとき60歳前後だから、まあ「逃げ切り」世代の最後かなと思う。
福澤諭吉は、その66年の生涯の最初の半分(33年)は江戸時代、あとの半分(33年)は明治時代に生きた。まさに「一身にして二生を」生きたわけだが、1980年生まれの人達がちょうどそういう感じで「最初の半分」(40年)と「あとの半分」(40年)を「一身にして二生を経る」が如く生きる世代なんじゃないかと思う。
そのとき、変わっていく先の「あとの半分」の世の中で「サバイバルできる条件とは何だろう」ということを最近考え続けているのです。
「最初の半分」での常識(いまの大人が当たり前だと思っていること、皆が知らず知らずに身につけている常識)を疑うことなく過剰適応すると、かえって「あとの半分」のほうでどうにもならなくなってしまうんじゃないかと、若い人たちを見て心配することも多く、思ったことはしつこく言っていこうと最近思いなおしたのである。それをどう受け止めようと読者の自由。そんなこと当たり前のことだ。でも、40歳ってのはけっこうしんどい年齢だから、そこで気づいてももう遅いということになりかねないしね。だからしつこく信じていることを書くよ。
未来のことなど誰にもわからないけれど、精一杯頭を使って考えれば、「未来を変える芽」のようなものはいろいろと見えてくる。
ウェブ進化論」を「フラット化する世界」や「富の未来」と一緒に読んでくれる読者が多いようだけれど、どの「未来への考察」も大筋では近い方向を指しているわけで、ではそういう未来が2020年頃に顕在化し、かなり大きなインパクトをもって日本社会を変えていくのだとすれば、その「あとの半分」の世界でサバイバルする思考法っていったいどういう考え方なんだろう、ということを今後真剣に考えていきたいと思っているのだ。「直感を信じろ、自分を信じろ、好きを貫け、人を褒めろ、人の粗探ししてる暇があったら自分で何かやれ。」はそのプレビューみたいなものだったんだと思ってください。
明日から月末までブログの更新ができないので、ちょっとだけ「嵐のような反応」を呼んだ感想を記しました。
追記。あと、なぜそう誤読するのかなと不思議に思うけど、「何でも褒めろ」なんて言ってないよ。いいなぁと思ったら(つまり心の中で褒めているときは)、以心伝心とか思って胸のうちに置いておかず、カジュアルにそれを言葉にしたらどうかと言ったのです。それだけで全体の雰囲気がずいぶん変わるでしょと。僕だって、褒めたいところがぜんぜんないのに褒める、なんてこと絶対にしないよ。