「好きを貫く」のはそんなに簡単なことではない。意識的で戦略的でなければ「好きを貫く」人生なんて送れないよ。

直感を信じろ、自分を信じろ、好きを貫け、人を褒めろ、人の粗探ししてる暇があったら自分で何かやれ。」を書いてから二週間。休暇で海外に出ていたのでしばらくこのブログを更新できなかったが、その間の膨大な反応も、帰国してから全部読んだ。
僕の本やブログをずっと読んでくれている人には「言わずもがな」かもしれないけれど、あの短いエントリーを単体で読むだけだと誤解を招くだろう部分が「好きを貫く」ことの難しさ、厳しさだ。
人生の幸福とは「好きを貫いて生涯を送ること」だと僕は思っている。「好きを貫いて生涯を送ること」は素晴らしいことだ。人からどう見えるとか、他人と比較してどうこうという相対的基準に左右されるのではなく、自分を信じ、好きを貫く人生を送ること。本当の幸福とは、そういう心の在り様にこそあると、僕はそう信じているから、若い人達に、そんなに簡単に「好きを貫く」ことを諦めてほしくない。でも「簡単だから、やってごらん」なんて言ってるわけじゃない。
「好きを貫く」というのは、「好きなことをしてただ漠然と時を過ごす」とか「嫌なことをしないで安逸な時間を過ごす」ことを言うのではない。それとは対極にある「厳しい意識的で戦略的な営み」を長く継続してはじめてたどりつける世界である。「好きを貫く」ことに意識的で戦略的でなければ、きっと流されて「好きを貫く」ことから遠ざかっていってしまうだろう。でも天才でなければ追求できないというほど、とんでもなく難しいことじゃあない。意識することがまずは何より重要なのだ。
「何が好きなのか」という根源的な問いに答え続けようと努力することがまずあり、「好き」が見つかったと思ってもそれを極めていくのは時間がかかるし大変なことだし、その先で「それで飯が食えるのか」という難しい現実と折り合いもつけなければならない。その上、いつ自分の「好き」が変わっていくかもわからない。「好きを貫く」には、「好きを探し続け」、「好きを極め」、「必要なら軌道修正して新しい「好き」を極め」「好きで飯を食えるようになってサバイバル」しなければならない。
「直感を信じろ」「自分を信じろ」というのは、信じるに足る直感を磨くべく真剣に生きていることが当然の前提になるわけで、それさえできなければ「好きを貫いて生涯を送る」なんてできるわけない。「人の粗探ししてる暇があったら自分で何かやれ」というのは、そのくらい自分の「好き」に関わることに没頭し続けて行動しなければ「好きを貫く人生」なんて送れっこないからだ。
僕はよく対話や文章の中で「サバイバル」という言葉を使う。サバイバルとは何か。「何からのサバイバル」を自分はいつもいちばん意識しているのだろう、と旅をしながら考えていた。やりたいと思えないこと、嫌なことをすることで、いちばん貴重な資源である「自分の時間」を失うこと、損なうこと。それからのサバイバルだ。
やりたくもないことをやり続けて一生を送り、それで仮に裕福な生活を送ることができても、僕にとってそれは「サバイバル」ではない。そんな人生は絶対に嫌である。そうだそうだと共感する人も多いかもしれないけれど、意識的で戦略的でなければ「好きを貫く」人生なんて送れないよ。
「好きを貫いて生きていけるほど、世の中、甘いもんじゃない」と多くの大人たちは言うだろう。「好きなんてことは忘れて、いまの社会で通用する人間になれ・・・」というような言葉を日本の若者たちはシャワーのように浴びているのだろう。むろん「好きを貫いて生きていけるほど、世の中、甘いもんじゃない」というのは、全体としては正しい。たしかに、甘いもんじゃなく難しいことなのだけれど、「好きを貫いて生涯を送る」ことを目標にすべきだと僕が信ずるのは、難しさに挑戦するだけの価値がある「素晴らしい人生」だと思うから。「難しいから諦めろ」と言うにはあまりにももったいないと思うからだ。

自分の良いところを見つけるには、自分の直感を信じ(つまり自分を信じるということ)、自分が好きだと思える「正のエネルギー」が出る対象を大切にし、その対象を少しずつでも押し広げていく努力を徹底的にするべきだ。そういう行動の中から生まれる他者との出会いから、新しい経験を積んでいけば、自然に社会の中に出て行くことができる。「好きなこと」と「飯が食えそうなこと」の接点を探し続けろ。そのことに時間を使え。

と書いたけれど、こんな難しいことを本気でやり切ろうと思ったら、くだらない粗探しなんかしてる暇もなくなるはずだ。