入江昭「歴史を学ぶということ」

歴史を学ぶということ

歴史を学ぶということ

そもそもイギリス人でもない自分に、英国の歴史を研究することなどが可能だろうか。先生の言葉は次のようなものだった。
「どこの国の出身であろうと、研究ができないなどということはまったくない。もちろん、英国に生まれたものは、古文書が手の届くところにあるという利点は持っている。しかしその反面、小さいときから教わってきたことを忘れて、専門家として新しい角度からその歴史を見直す必要がある。その点、外国人のほうが有利ですらある。」
その言葉にどれほど激励されたか、計り知れない。その後私自身、同じことを学生に繰り返してきた。(p46)

間違っても、自分の国のことは外国人よりもよく知っているなどとうぬぼれてはならない。もちろん、自分の国を相対化して見ることが肝要で、とくに歴史を学ぶものは、自分の国の歴史が他国の人にどう映るかを意識していなければならない。(p62)

読むべき本のリストを作って先生に見せたところ、そのうち一部の書籍にしるしをつけて、「このような本は一読に値する。大体二時間ぐらいかけて読んだらいい」といわれた。リストにあったそれ以外の本については、まったく読むに値しないか、五分ほどかけてざっと目を通せばよいか、どちらかだといわれた。
どの本でも、著者がいわんとすることがひとつある(もちろんそれがなければ読む意味がない)。本を読むということは、このひとつのことを理解することであり、そのためには長時間をかけて一冊一冊丁寧に読む必要はないというのが先生の助言だった。(中略) 図書館に山ほどある研究書を、ひとつひとつ時間をかけて読むことは不可能である。とくに米国史などとなると、一冊に二時間かけて読んだとしても、一年に数百冊しか読めない。必要なのは、書籍のあいだの関連、すなわちある著作が特定の分野の研究にどのような貢献をしているかを見極めることである。(p57-58)