虚と実

わが友マキアヴェッリ―フィレンツェ存亡 (塩野七生ルネサンス著作集)

わが友マキアヴェッリ―フィレンツェ存亡 (塩野七生ルネサンス著作集)

ダンテも同じだが、マキアヴェッリも、人生を文人として出発したのではない。
もの書きとして人生を生きはじめたのならば、それが、実に孤独な生の過ごし方であるのを、肝に銘じてわかっていたはずである。
「礼儀をわきまえた服装に身をととのえてから、古の人々のいる、古の宮廷に参上する。(中略) そこでのわたしは、恥ずかしがりもせずに彼らと話し、彼らの行為の理由をたずねる。彼らも、人間らしさをあらわにして答えてくれる。
四時間というもの、まったくたいくつを感じない。すべての苦悩は忘れ、貧乏も怖れなくなり、死の恐怖も感じなくなる。彼らの世界に、全身全霊で移り棲んでしまうからだ。」
これがもの書きの世界である。実の世界に生きる人から見れば、気がふれたのではないかと思われてもしかたないほどこっけいな虚の世界である。
そして、虚を実以上のものにするには、
「ダンテの詩句ではないが、聴いたことも、考え、そしてまとめることをしないかぎり、シェンツァ(サイエンス)とはならないから、わたしも、彼らとの対話を、「君主論」と題した小論文にまとめてみることにした」
しかないのである。そして、これで、虚の世界の住人の任務は終りだ。虚の世界の住人の提示したことをどう使うかは、または使わないかは、実の世界の住人を待たなければならない。