桂米朝と沼野充義

僕の落語鑑賞の師匠は、某誌副編集長のMさんである。そのMさんがあるところで書評を書いていて「談志百選」

談志百選

談志百選

を薦めていたので、早速入手して読んでみた。さすがMさん好みの深くて渋いいい本で、一気に読み終えた。本物の人物評論は、読み手が知らない人について書かれた文章でも、面白く読ませる。その上、談志の文章は話芸の香りがふんだんにして楽しい。志ん生やたけしや松本人志の評なんかは、だいたい想像した通り、なんて言っちゃ叱られるだろうが、まぁそれほど驚かなかったが、桂米朝をこれ以上ないほど褒めているところがいちばん印象に残った。米朝上方落語「中興の祖」だということには誰も異論を挟まないだろうが、談志はこう書く。

けど、米朝さんの如く、その行為が上方落語全般に及ぶというのは一体何がその動機になっているのだろう。ま、頭の何処かに、己れの人生を託した上方落語の衰退の現実を知っていて、それを何とか盛り返すべし・・・という行為、つまり"自分の芸の中での処理"の範疇ではあろうけれど、それを拡大し、ターゲットを「上方落語全体」に決めた、という事実は、何処から、何時ごろから始まったのか・・・ま、自然天然と発生してきたものであろうが、よくも、まア、こんな物凄い、巨きなものと対決をしたものだ・・・。待てよ、桂米朝にとっては、さ程のことではなかったのかも知れない・・・。
でなきゃ、ああは出来まい、やるまいに・・・人間、出来そうもないものに本気でぶつかり、「努力で解決」なんて嘘である。才能もないのに、巨大なものに挑戦する奴あ唯のバカで、結果バカだから駄目に決まってる。
してみりゃ、「ナーニ上方落語なんざァ、米朝(おれさま)がチョイと手を染めりゃ、すぐにでも活性化すらあ」とやったのだろう。だから、あの結果になったのだ。

このあと上方落語の技術的困難さについての解説があり、「いやネ、このくらい云っとかないと桂米朝の評価が低すぎる。」と結んでいる。
引用部冒頭の「その行為」の「行為」とは、一つ一つの上方落語について、古老たちの芸の形式を吸収した上で再構築し、現代の感覚も入れて作り直す「行為」のことである。
「談志百選」に続いて読んだのが、「200X年文学の旅」

200X年文学の旅

200X年文学の旅

である。ともに1954年生まれの二人の東大教授、柴田元幸沼野充義の共著本である。二人の往復書簡のような体裁をとったこの本の一篇一篇は、どれも力がこもっていて面白かったが、特に沼野充義の充実ぶりというか、何と言うか、すさまじいなぁと思った。
あとがきの中で柴田元幸が、

むろん「文学の旅」とは、何よりもまず読むことであり、その大半は仕事机の前か、ソファの上かでなされる。だがもちろん沼野君は、自宅の仕事机だかソファだかにも長時間貼りついた上で、かつ旅も実践しているのである。いったいいつ寝ているのだろうか。あるいは、二十四時間を二十四時間以上にする、ロシアの秘法を会得しているのだろうか。

と、冗談めかしてこう書いているが、本書を読むと確かに自然にそんな感想を抱く。ほとんどの日本人が見向きもしない現代ロシア文学、東欧文学の復興に情熱を燃やす沼野の「行為」は、衰退していくばかりの上方落語を復興した桂米朝の「行為」と、何か相通ずるところがある。
そして、こうした「行為」を単に「使命感から来ている」などと凡庸に言わないところが、談志の文章の凄いところだ。談志の米朝論は、人間の「器」とは何なのかということを深く考えさせてくれる材料として、僕の頭の片隅にきっと残り続けることだろう。