渡辺一夫の仕事の仕方について

渡辺一夫「狂気について」(岩波文庫)の清水徹による解題から。

いまにして思うと、これらの著作の構想は、あのころ次第に先生の頭のなかに熟していたのだろう。なお、これはフランスから帰国後、筆者がたまたま聞いた著者の言葉によると、著者は調査をすすめ、ノートがほぼ一冊出来あがると、一冊分を一気に書いてしまい、そのあとで読み直し、訂正しながら毎月編集担当者に一月分ずつ原稿を渡し、さらに連載が終了したあとで全篇を読み直してもう一度改訂するという執筆方法を取った。「そうしないと、細かな日付など忘れてしまうもので・・・・・・」という言葉と、「でも、うっかり徹夜に近いことをしてしまって、疲れますな・・・・・・」という言葉をはっきり覚えている。著者、六十七歳から七十三歳までの仕事である。

渡辺一夫「狂気について」(岩波文庫)の大江健三郎による解説から。

渡辺先生が、自分の研究はラブレーのテキストを読みながら幾枚かの確実なカードを書くことにつきるとしばしばいわれたと、清水氏はじめ研究者となられた教室の先輩の幾人もから聞いている。
先生が終生その完成に重ねてたゆみない改訳につとめられた『ガルガンチュワとパンダグリュエル物語』の翻訳は、まず文体自体が日本文学を富ましめるものだが、その豊富な注釈も、いちいちが興味深く喚起力にみちたものである。先生のとられたカードが多様にかさなることで注釈をなした過程は、素人の読者にも読みとられる。専門の研究者にはなおさらのことであろう。そしてその注釈が、一方では評論・エッセイのかたちに展開し、一方では『ラブレー研究序説』のような論文に大きい結晶を示したのである。