「観る」ことと「する」こと「生きる」こと

「ものぐさ将棋観戦ブログ」で、拙著「シリコンバレーから将棋を観る」を早速読んで取り上げていただいた。「「観る」という行為は実は恐ろしく深いのだ」を読み、何だかいくらでも語り合えそうな気がしてきて、ブログを始めた頃の楽しさを思い出したので、思いつくままに、そのテーマとなっている「観る」と「する」について書いてみよう。

純化すると「観る」というのは客観的な行為、「する」というのは主観的な行為である。人は結局自分の人生を生きなければならない。あくまで生きるというのは自分自身の主観的な行為である。自分でしなければどうしても身につかないということは確かにある。だから「する」(生きる)という行為は尊い。だが、そこに客観的な「観る」行為が欠けるのならば、自分を失ったり自分の狭い価値観に閉じこもることになってしまう。

ふと思いだしたのが、将棋ではなくてラスベガスのことだ。
アメリカに来てまもない頃、初めてラスベガスに行ったとき、僕は夜どおしブラックジャックのテーブルに坐って勝負をし続け、そのまま朝になって、一睡もせずに空港に向かったので、飛行機がサンフランシスコに向けて飛び立ったのを知らず、気がついたら着陸していて、隣に坐っていた妻に呆れられた。その後も、ラスベガスは遠いのでなかなか足を伸ばせないので、レイク・タホのネバダ側まで、車での一泊旅行もよくした。
アメリカに来て二年半たって会社を創業した。最初のうちは休む間もなくて、なかなかラスベガスやタホに行く時間がなかった。
やっと暇を見つけて、さあ久しぶりに・・・と出かけたとき、僕はもう夜通しどころか、ほんのわずかな時間もブラックジャックのテーブルに坐って勝負することができなくなった。
会社を創業してからの日常は、ぜんぜん意識していなかったけれどじつは勝負・勝負の連続で、ブラックジャックのテーブルの上のチップとは比較にならぬ金額が、自分の判断の一つ一つによって、ちょっとしたことの成功と失敗の違いによって、出て行ったり入ってきたりするものなのだということが、ブラックジャックをやり始めてまもなく、鮮やかに身体でわかってしまったからである。
それ以来、ラスベガスやタホに行っても、ブラックジャックのテーブルに坐ることはなくなった。
「ものぐさ」さんの『人は結局自分の人生を生きなければならない。あくまで生きるというのは自分自身の主観的な行為である。』という文章の言葉を借りれば、12年前に会社を始めたときに、僕は本当に「自分の人生を生き」はじめ、その代償行為を必要としなくなったのだろう。
そして、ちょうどそんな時に巡り合ったのが、羽生さんの幻の名著「変わりゆく現代将棋」だった。以来、僕にとって、「将棋を観る」ことは、「生きる」という「自分自身の主観的な行為」を、客観的に「観る」ための触媒のような役割を果たすようになった。
だから「シリコンバレーから将棋を観る」という本を書くことになったとき、僕はこの「変わりゆく現代将棋」のことからしか書き始めようがなかった。

「はじめに」でも触れたように私自身は、十代のときに熱中していた将棋から、しばらく遠ざかっていた。
そんな私が、抗すことのできない大きな力によって将棋の世界にぐいと引き戻されたのは、将棋の未来の本質を示唆する羽生の魅力的な長期連載と出合い、度肝を抜かれたからだった。それが、羽生・未刊の名著「変わりゆく現代将棋」だった。
この著作を目にした瞬間、羽生の過激な思想は、圧倒的なインパクトを伴って私に迫ってきたのだった。
「変わりゆく現代将棋」は、一九九七年七月から始まって二〇〇〇年十二月に終了するまで、三年半にわたって『将棋世界』誌に毎号掲載された連載である。「第一章 矢倉」と題して続けられた羽生の思考が、毎号十ページ以上を費やしながら展開され、それが延々三年半にわたって続き、二〇〇〇年十二月に唐突に終了した。そして「第二章」は書かれることがなかった。その意味では「未完」の作品とも言え、それゆえか書籍化が現在にいたっても行われておらず、残念ながら、幻の名著とも言うべき状況になっている作品である。
この連載が続けられていた二十世紀末、私はシリコンバレーから日本にやってくるたびに、出版社に勤める友人や雑誌の編集者たちに「羽生善治が、とてつもない連載を始めたのを知っていますか」と問い、相手が将棋好きかどうかを問わずに、この連載について熱く語ったものだった。
(「シリコンバレーから将棋を観る」第一章より)

会社を始めたのが1997年5月。「変わりゆく現代将棋」の連載が始まったのがその直後の6月。この連載が続いていた間、シリコンバレーではインターネット革命の嵐が吹き荒れ、最後にはバブルがはじけることになった。それとともに、僕自身にとって生涯忘れられないような、怒涛の日々が続いていた。羽生さんと出会ったのは、そんな嵐がやんで一段落した頃、「変わりゆく現代将棋」連載が終わってまもない、2001年初夏の棋聖戦でのことだった。
僕にとって将棋とは、自分自身が「する」「生きる」ために「観る」ものであり、それ以外の付き合い方は考えられなかったのだった。