米長邦雄「人間における勝負の研究」

私家版・金子金五郎全集を眺めていたら、僕の人生に多大な影響を及ぼした名著「人間における勝負の研究」(米長邦雄著)についての言及があった。「近代将棋」昭和57年10月号の金子教室、米長・谷川戦解説の冒頭である。

私などは勝負の世界に育ちながら米長氏のように勝負に熱心にはなれなかった。どちらかというと将棋を観察する側の一人である。その姿勢はどの手が最善かということの外に「いかにしてこの手が生まれたか」という過程の方に興味があった。過程の背後にはその人らしい論理がある。感性がその底に動いている。それは名人級になるほど将棋という芸に仕上げているということも人間の秘密のひとつであろう。

この金子の文章を読むと、僕がなぜ金子に惹かれるかが改めてよくわかる。勝負より観察、事象の向こうの人間への関心・・・。人間としての傾向がおそろしく似ているからだろう。このことについてはまたいずれ書くが、今日のテーマは米長の処女作である「人間における勝負の研究」である。先日「将棋本オールタイムベストテン」で、第三位にこの本を選んだ。昭和 57年、1982年、今から26年前に書かれた、オリジナリティに溢れた人生論の書である。大学四年生のときにむさぼるように読み、その後の人生の大切な決断の中で、この本に助けられたことが多かった。
ところで、いま世に広く知られ、将棋界に大きく貢献した「米長哲学」は、この本で初めて語られたものだ。

自分がその相手に負けても、自分の段位がすぐに上下するわけではないが、相手にとっては、勝敗が直接影響して、その人の運命を左右しかねない一番 (p29)

こういう勝負に全力を尽くすことが人生でいちばん大切なことである、というのが「米長哲学」である。
自分にとっては消化試合、相手は負ければ引退のような人生のかかった勝負、というようなときに、手を抜かずに、自分にとっての大切な勝負のとき以上の気持ちで全力を尽くせ、というのである。ここからは僕の想像だが、米長以降の世代の一流棋士たちは、将棋界という村社会の中で「勝負に私情をはさむ悩み」を、この言葉によって軽減され、のぴのびと伸びていくことができたのではないかと思う。
ただ金子同様、なにごとにおいても「勝負に熱心にはなれなかった」僕としては、本書のもっと他の部分から、大きな影響を得た。たくさんあるのだが、三つだけ選ぶ。
(1) 一人前になるには6,000時間の集中が必要
(2) 人間は、常に悪手の山の中を歩いている
(3) 大事なことほど簡単に決めるべし
である。
(1) は説明を要しないだろう。一日5時間集中して1,200日。つまり約4年。まあこのくらい一つのことに打ち込めば、プロとしてやっていける、そんな基準である。いろいろ実践してきたが、いい数字ではないかと思う。ときどきブログで、ああこれは800時間くらいかな、とか、2,000時間使ったとか、僕が何気なく書くのは、この本の影響だったのかもしれない。
(2) これは「ウェブ時代をゆく」で書いた「けものみち」を僕が歩んでいくときの「座右の銘」になった。

将棋で最善手を見つけることは、本当に大切なことです。しかし最善手を見つけることも大切ですが、それよりももっと大切なのが悪手を指さないことです。だから、悪手でない道なら、端でも真ん中でも、どこを歩いてもよいのです。(p20)

「高速道路」を疾走しているときには、こういう発想はなかなか生まれないが、「けものみち」はなんでもあり、ゴチャゴチャと軌道修正をかけながら生きていく世界だ。僕のすべての判断の背後に「悪手を指さないこと」「悪手でなければ何でもいい」というのがあった。
(3) これも僕が当時から今日にいたるまで、実践している考え方である。結婚、就職、引越し、家を買う・・・といった大切な判断ほど、直感を信じて、簡単に決めてきた。目の前に「判断すべき対象」が現れる前までは徹底的に考え続けるが、「判断すべき対象」が現れたときには瞬時にYESかNOかを決める。それが僕の流儀である。

大事なことだからこそ、簡単に決めるべきだと思います。悩み、考えあぐねてから答えを出す場合よりも、だいたいにおいて間違いが少ないものなのです。そういう時に、カンに頼っていい、と私が言うのは、その裏づけとなる「読み」がたいていの場合、存在するからです。(p58)

二年ほど前に将棋連盟で講演したとき、講演会場までの廊下で、ちょっとだけ米長さんと二人だけになった。そのとき、僕はこの本への感謝の気持ちを彼に短い言葉で伝えた。それほどに僕は、この本によって助けられたという意識を強く持っている。きわめて個人的な感想なのだが。