生命とは制御できないもののことである

茂木健一郎クオリア日記」の「生命とは制御できないもののことである」が面白い。「フューチャリスト宣言」(ちくま新書、5月刊)での対談の中で、「ネット」や「ブログ」や「いまウェブ上で起きていること」を、脳の仕組みや生命現象の本質と照らして、僕たちは考えた。
そういう議論・思考の延長線上でこのエントリーを眺めた。

生きものの定義を、「制御できない
もの」としたらどうか。

「生命とは制御できないもののことである」
と考えることで、ぱっと視野が広がって、
様々なことの本質が見えてくると思う。

茂木さんとの対談では学ぶことが本当にとても多く、影響を受けるところ大であった。「オープン」で偶有的なプロセスでやっていかないと生命体の成長はない、それが生命の一大原則なのだ、ネットは生命原理に近い事象を人間の脳とか情報の領域に起こすものだ、命を輝かせるためにはネットの偶有性の海に飛び込むべきなんだ、ミトコンドリアなんてもともと別の生物だったものを取り込み共存したものだ、だから我々は酸素呼吸できるようになったんだよ、過去の歴史でそれなりに名をなした人というのは、オープンにして外界とのやり取りの中で時にはぐちゃぐちゃになりながらそこを乗り越えて偉大なことをなした、同時代には毀誉褒貶の嵐にさらされそのプロセスから成長した人々が多い、人間の成長を分ける分水嶺は偶有性をどう受け入れるかであり、昔なら一部の公人にしか与えられなかったそういう場を自らつくって身を置くことができる可能性がネットで誰にも開かれたのだから今は素晴らしい時代なんだ。茂木さんはこんなことをおっしゃった。僕は「ブログを書くのは、修行みたいな感じですよね」と答えた。
そんなこともあって、このブログでも最近、少し意識してわざと「偶有性の海」を作り出そうとしている。意外なもの、激しいものを含め、さまざまな反応はすべて「脳の栄養」として取り込み、得るところがものすごく大きい(僕のブログへの反応を見て、オープンにするとこんなことが起こってしまうのか、というふうには絶対に思わないでほしい、わざとやらない限りこんなふうにはなりません、これからブログを始めようかと迷っている読者の方々はどうぞご安心を)。
むろん、生命現象のタイムスパンはおそろしく長いから、プロセスはただ混沌としているだけで、そこから近々に何かが生まれるかどうかはまた別の話だけど。

 ウィスキーはもともと「生命の水」
と言う。原酒は制御できない。生きている。

仕込んでも、結果は10年後にしか
でない。
 100年後、200年後の樽作りの
ために、今日ミズナラを植える。
 ドッグ・イヤーだけがこの世の
真実ではない。
 特に、学問のコアはそうである。
 ウィスキー・タイムをドッグ・イヤーへの
対抗軸とせよ。

茂木さんはこのエントリーをこう締めくくっているが、このブログでの僕の人体実験は「ウィスキー・タイム」の実験なのかもしれないなと、そんなことを考えた。