「志の高い人」茂木健一郎さん

茂木さんとお会いしたのは雑誌「アエラ」誌上での対談が最初で、7月のこと。
先週が2回目。
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2006/11/post_8972.html
来年さらに追加で対談をやって、いずれ本になる予定(詳しいことが決まったら本欄でお知らせします)。
茂木さんのクオリア日記を拝読していると、読んでいるだけで目が回ってしまうほどの忙しさである。いまはインドにいるみたい。あらゆるチャンスを逃さず、いろいろな分野で活躍する旬の人に、貪欲に会い続けながら考えていらっしゃるようだ。
この対談のためにずいぶん茂木さんの著作を読み、講演をダウンロードして聴いたりしたが、茂木さんは「志の高い人」だとつくづく思った。
最近のクオリア日記では、この文章がとても好きだ。
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2006/10/post_df6b.html

 とにかく考える時間を確保するのが
必死の闘いである。
 歩くのが一番良い。
 精神の空き地をつくり、そこから様々な
植物が生えて怪しい花を咲かせるのを待つ。

 心脳問題を解くか、あるいは見通しを
つけなければ
 わが生涯は悔いが残るなり。

 しかし、心脳問題という「チェス」は、
きわめて複雑で、盤面を見渡すことも難しく、
今が序盤なのか、あるいは一手詰めなのか、
無意識の嵐に耳をすませてもなかなか
わからない。

 ここのところの忙しさ、というか
ものごとの立て込みかたは、
 一段と密度が増したようであり、
 瓶にびっしりと詰まったジェリービーンズの
よう。

茂木さんは講演の中で「解くか、見通しをつけなければわが生涯に悔いが残る」という「心脳問題」について、ダーウィンが19世紀にやった仕事に相当することを誰かがやらなければならないと述べておられた。むろん自分でそれをやってやろう、と考えておられるのは間違いない。
そして今彼は、四門出遊の途上にあるのだ。
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2006/11/post_89aa.html

 自分の人生のことを考えた。
 ボクは、「古典的な科学」の世界から
四門出遊したような気がしている。

 最初は、バブル経済の中で生き方に
悩んで法学部に行った。

 次に、クオリアの問題に目覚め、それが
全てを数量化する通常の科学の方法では
扱い得ないことを知った。

 それから、芸術とか、文学とか、
他の活動分野と比較しての科学の立ち位置、
原理的な位置づけについての思索が始まった。

 釈迦は東の門から出て「老い」に出会い、
南の門から出て「病気」と遭遇し、
 西の門から出て「死」に向き合った。

 釈迦は、北の門から出た時に、修行者たちと行き違って
自分の道を見つけるが、
 私にとっての北の門は果たして開いているのか。

僕が対談を前に用意した質問で、茂木さんにいちばん聞いてみたかったのは、
「ブログで「心脳問題を解くか、あるいは見通しをつけなければ、わが生涯は悔いが残るなり」とお書きになられていました。講演をお聞きし、ダーウィン的な仕事の現代における可能性を模索されていると理解しました。そういうブレークスルーを生み出すために、毎日たくさんの人と会い、たくさんの仕事を引き受け、多様な仕事をこなされているのですか。たっぷり時間をとって孤独に思索するというアプローチを取らないのはなぜですか。」
ということだった。
対談を終えてふと頭をよぎったのは、いずれあるとき茂木さんは、今の仕事のスタイルをがらりと変えて、しばらく完全に引きこもってしまうのではないかという予感だった。