毎日新聞夕刊「ダブルクリック」欄・第三回「約束の時間」

毎日新聞火曜日夕刊コラム欄の第三回です。

約束の時間に僕は絶対に遅れない。約束よりかなり早く目的地に着くように予定を立てる。昨夜こんな夢を見た。母校での講演を依頼された僕はいつものように会場に早く着きすぎ、真新しくなったキャンパスや図書館を歩いている。そのうちなぜか人ごみに紛れ、道に迷い、会場に帰れなくなる。講演の時間が近づき焦り、動悸が激しくなる。周囲を見回し、早歩きしてもどこにもたどり着けず呆然としたところで、大汗をかきながら目覚めた。
東京出張中は、一週間に三十以上の打ち合わせをこなさなければならず、朝食から深夜まで予定が入る。それをすべてこなしてシリコンバレーに戻ると、しばらく自宅で静養しないと身体が元に戻らないほど疲労する。物理的疲労もさることながら「約束の時間を絶対に守る」という精神的疲労がかなり大きいことに最近気づいた。
日本で携帯電話が普及し、若い世代が「七時三十分渋谷ハチ公前で」という約束の仕方をしなくなったと聞いた。「七時ごろに渋谷で」といったアバウトな約束をしておき、あとは「今どこ?」「センター街の○○あたり」「オレたち今○○の少し先の△△って店にいるから。わかんなかったらまた電話して」という感じで物事が進んでいくらしい。同世代の友人たちは「こんなことで社会に出てからどうする」と若者たちをシニカルに眺めるのだが、新しいインフラを自然に使ってしなやかに生きる彼ら彼女らが、僕にはとても羨ましい。余計なところで精神的に疲労しないほうが創造的に生きられる。
でも僕はもう「約束の時間を絶対に守る」という刷り込みから逃れられそうもない。短期出張中は無理だがシリコンバレーの日常では、先の約束をなるべくせず、その場その場で事に処する生き方を意識的に指向している。
(毎日新聞2006年10月17日夕刊)