毎日新聞夕刊「ダブルクリック」欄・第二回「飛行機という会場」

10月から担当することになった毎日新聞火曜日夕刊コラム欄の第二回です。

シリコンバレーと東京を年に六、七往復する生活を続けて十二年が過ぎた。自宅を出てから東京のホテルに入るまで約十五時間。あるとき僕はこの十五時間を、いっさい仕事のことを考えない時間、ネットにも絶対につながらない時間とすることに決めた。退屈な時間を少し特別な時間に変えたいと思ったからだ。

出発の前の晩から、機内で読む文庫本を四冊、ああでもないこうでもないと選ぶ。気分次第で何を読みたくなるかわからないので、最低四冊は必要なのだ。そして僕のノートパソコンには、名人戦など一万局以上の将棋の棋譜を保管してあるので、誰のいつ頃のどんな将棋を並べようかなと考える。自分のCDライブラリーをすべて収録した「iPod(アイポッド)」を満タンに充電し、聴きたい音楽を百五十曲ほど「iPodシャッフル」に入れると、いざ出張と心の準備ができてくる。

ところで最近のフライトで、食事のあと暗くなってもうまく眠れなかったとき、ふと講演でも聞いてみようかなと思った。「iPod」から、昭和三十六年八月に長崎県雲仙で行なわれた「現代思想について」(新潮社)という小林秀雄の講演を選び、再生ボタンを押した。機内の適度な暗さや整列した座席の窮屈さが講演会場であるかのような臨場感を醸し出したのか、僕はたちまちのうちに時空を超えて、四十五年前の雲仙にいた。ぐいと名講演に引き込まれ、気がつくと二時間以上が経過していた。至福のひと時だった。

そうか、飛行機の中って、講演を聞くのに最適な場所だったんだ。僕は素晴らしい発見をしたような気持ちになった。東京に着き、入手可能な小林秀雄司馬遼太郎の講演をすべてCDで購入した。今その音声は全部「iPod」の中におさまり、次の出張時の出番を待っている。
(毎日新聞2006年10月10日夕刊)