一人でぼんやりと何かを読んだり考えたりしていること

ここのところ仕事でかなりまとまった書き物をしているため、「英語で読むITトレンド」っぽいものを書くエネルギーが湧かない。CNET Japan連載時は、そういうまとまった書き物の傍ら、出張や休暇期間中の掲載分15本くらいを書き溜める作業を、東京に出かける直前にしなければならないのがしんどかったが、個人のBlogだと、気が向いたときに気が向いたことを書けばいいから楽である。
ところで昨日、「「好き」ということの度合い」
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20050828/p2
というエントリーで、将棋の千葉五段のエピソードを挙げたが、僕の場合いくら将棋が「好き」だからといって「美濃囲いのすごく厚い形」に「体全体で喜ぶ」ほどには「好き」じゃない。仕事もそんなには「好き」じゃない。何か一つの対象に、それほどまでにはのめり込めないたちである。
ここ数日、「一冊単位で本を読むのではなくて、短編小説単位で本を読む」という「コロンブスの卵」的な発見をして、本棚の前にいてぜんぜん飽きない。次々に過去に読んだものの断片が頭に浮かんできて再読したり、いつか読もうと思っていた本から一篇をランダムに選んで読んだり、それらに刺激されて何かを考えたり、そんなふうにぼんやりと経っていく時が素晴らしい。
小説ではないが沢木耕太郎の「祭りのあとで」というエッセイがある(「彼らの流儀」所収)。このエッセイで語られる主人公のことがよほど気になるのだろう、事あるごとにこの主人公のことを思い出す。主人公は元ボクサーのカメラマン。一緒に出かけた取材旅行から戻って、沢木は別れ際に、彼とこんな会話を交わすのだ。

ロサンジェルスに戻ると、何をすることになるんですか」
私が訊ねると、彼は少し眩しそうな眼つきをして言った。
「フィルムを雑誌社に送ると、あとは次の試合までぼんやりです」
「ぼんやり、何をしているんです?」
「コーヒーをいれたり、パイプをやったり」
「そして?」
「窓の外を眺めていることが多いかもしれないな」
「それだけ?」
「それだけ」
彼はロサンジェルス郊外の海沿いの高層アパートで独身生活を送っているのだ。

「パイプをやる」かわりに「何か読むもの(ネットや本棚)がほしい」というところに違いはあるが、こうして果てしなく続く暇な時間を、ぼんやりと、読んだり考えたりしながら過ごすこと。それが、僕が何よりも「好き」なことである。