Blog論2005年バージョン(7・これで完結)

一連の議論を総括した「デジモノに埋もれる日々」の「「産業」よりも「文化」- 国内のブログとネットコミュニティ」
http://c-kom.homeip.net/review/blog/archives/2005/05/post_189.html
を是非読んでいただきたい。今の日本のBlog世界の状況は、まさにこのまとめの通りであると思う。いつも感心するが、デジモノ氏の「まとめ」力は抜きん出ている。

極上のラーメンが食いたい

政治・社会や経済・金融・ビジネスといった真面目な議論の分野では、ネット上のコミュニティがその界隈に影響を与えるほど強い力を持ち得たというストーリーには今のところなっていません。その一方で、様々な趣味世界の情報を追求するという目的では、日本のネットコミュニティは大きな力を発揮し続けています。 
政治・社会や経済・金融・ビジネスといった真面目な議論が沸騰することを望まれていた方々には、この状況は残念というほかないでしょう。ですがそれはあくまでご自身の期待と方向が違ったというお話にすぎません。乱暴に言ってみれば、ラーメンを注文したらチャーハンが出てきたけど、「チャーハンはラーメンよりレベル低い」 という比較に意味が無いのと同じこと。日本のブログ、ネットコミュニティは今、極上のチャーハン (?)なのです。

文中でも参照されているR30氏や徳力氏がどう考えるかはわからないけれど、僕の立場は、「チャーハンはラーメンよりレベルが低い」などとは全く思わないが、個人的には「極上のラーメン」が食いたいので、何とかそういう方向への働きかけを続けていければなと思っている、ということである。また「極上のラーメン」の中でも、人文系、政治経済全般、金融といったところは専門外なので個人的にはあまり興味はなく、IT産業/テクノロジー/ビジネスの接点あたりでのさらなるBlogの活性化があれば素晴らしいなと思う。

日本にテクノロジー系のコミュニティは存在しないのか

「いいたいことの1/3もまだかけていない」とのことだが、id:connect24hの「connect24h的コミュニティ論 (1)」
http://d.hatena.ne.jp/connect24h/20050502
も是非お読みいただきたい。情報発信をするとこういうふうに勉強できるという好例である。詳しいことは、氏の「残り2/3」を読んでからでなければ云々できないのが、ここで書かれているようなことがさらに大きく広がっていくことを熱望してやまない。
さて、僕にとっての「極上のラーメン」(一般的Blog論ではなくあくまでも個人的な嗜好である、誤解なきよう念の為)とは何かについて、もう少し詳しく考えてみたい。これから書くことは、いただいたたくさんのトラックバックやコメントに刺激されて、もやもやとしていたことが自分の中でクリアになったという意味で、Blogで情報発信したゆえの産物である。

雑誌とネットの違い

CNET連載をきっかけにネットで本格的に情報発信を始めて、雑誌で書くのと全く違うなと思ったことが三つあった。一つは双方向性で、これについては何度も言及したのでここでは省く。二つ目が「お約束の読者層」を超えて「読まれる」ことの意外性や面白さや裏返しの怖さであった。雑誌というのは、どんな雑誌も「読者層」がある程度規定されているという「お約束」があって、その「お約束」に基づいて書き、読まれるものだ。対象とする「読者層」以外の人たちが仮に読んで違和感を感じたり、異なる意見を発信しようと思っても、それはほとんどの場合、排除される。しかしネットの場合、そういう制約がいっさいなく、自分がいくら勝手に「読者層」を想定しながら書こうが、何かのきっかけで読んだ「読者層」とは違う人たちからいきなり直球が投げ返されてきたりする。どんな文章にも字数の制約というものがある。雑誌の場合には「想定読者層」という「お約束」を頭に置きながら、制限字数内で伝えたいことを書くのが普通であるが、ネットの場合はなかなかそこが難しい。
そして三つ目が、書く方が「これでまとまりだ」と思っている「まとまり」とは違う切り出し方で「部分」が一人歩きして伝播していくことである。たとえば今(7)を書いているこの「Blog論2005年バージョン」でも、(2)へのアクセスだけが異常に多く、その中でも特に、

確かに堀江さんや藤田さんをはじめとして、日本のネット系ベンチャーの社長がBlogを開設するようにはなったが、ライフスタイルの開示やベンチャー起業・精神論みたいな「面白さの追及」に終始して、中身のある話は少ない。大組織に属する超一流の技術者や経営者が本気でBlogを書くということも、どうも日本では起こりそうもない。磯崎さんのBlogのような質の高いものが、ありとあらゆる分野で、これでもかこれでもかと溢れるようになればいいのだが、そういう方向を目指すBlogは相変わらずほんのわずか。日本のBlogは、そちらに向かっては進化していないように思える。残念ながら今のところ、僕の期待は裏切られたのだな、というのが正直な感想なのである。

という部分だけが「一人歩き」していることが、全部読んで下さった方にはよくわかると思う。そして、(6)に対してのumhr氏のコメント

 例えば、blogは書かないけど、Mixi(的なクローズドなコミュニティ)には書くって人がたくさんいますよね。会社の中のみの、村人になるのは嫌だけど(村に住んでる人ごめんなさい)、かといって荒野にたたずむのも怖い、みたいな感覚の適度な区画整理された別荘地として、mixiを使っているのかも、とか思います。
トモダチのトモダチぐらいまでにアピールできれば、十分、とか思ってたらmixiで十分なわけです。

では「Blogを書く」ことを「荒野にたたずむ」ことだと表現されているが、実は、大変尊敬している知人(超一流技術者として著名な方)との直接の会話の中で、umhr氏のこのコメントと全く同じコメントをいただいたことがある。前述した雑誌との三つの違い、つまり、(1)双方向性、(2)読者層想定不能、(3)部分が一人歩きする、の三つを僕が発見したとき、確かに同じように「怖い」という感覚を持ったことは事実なのである。

ギークとスーツ

書く側にとっては「読者層を想定してもあまり意味がなく、自分が文章や論理の全体像をも規定できず、自由に部分が切り出されて、その内容が伝播し、意外な人からどんどん反応が来る」可能性があるメディアというのは怖い。しかも書いたってカネは入ってこない。
しかし慣れてしまうとこの環境は最高にエキサイティングで、特に原稿料で生計を立てる必要のない身としては、もう雑誌には戻れないほど面白い。
では何がそんなに面白いのか。僕にとっては、「ギークとスーツ」の対話が果たしてネット上で成立するのかという実験をしているいう意味での「面白さ」と「意義」が、自分の中でどんどん大きくなるのを感じている。「ギークとスーツ」については、CNET連載の2003年10月8日「僕がこの連載でやろうとしていること」
http://blog.japan.cnet.com/umeda/archives/000729.html
の中で、こう書いたので、そこを全文引用する。

シリコンバレーでは、ギーク(技術者)とスーツ(経営者やビジネスマン)は永遠にわかりあえないものなのだ、という達観がある。
わかりあえない、なんて生易しいものではなく、互いに憎しみあっている場合も多い。
サイエンスとテクノロジーがこれだけ進歩を続けているから、技術者の知識やスキルは高度化の一途をたどる。一方、ネット普及とグローバル化が進む中で、経営やビジネスだって同じようにものすごく進化している。だから、何から何まで全部わかっている人など、どこを探してもいやしない、という時代である。
ベンチャーというのは「時間を区切ったプロジェクトにしなければ、ギークとスーツが喧嘩せずに協力することなんかできっこない」という達観ゆえに生まれたものなのかもしれない、と冗談にも思うことが多いほど、最先端でのギークとスーツの確執は深いものがある。
それでもなお、ギークとスーツが協力しないと何も生まれない、という矛盾の中で、ありとあらゆる企業が七転八倒しているのが、現代ハイテク産業の業のようなものである。このことを、我々はいつも明示的に意識しなければならないと思う。
ただ七転八倒する中では、いろいろな知恵も生まれる。どういう知恵かなんて言葉では説明できないほど微妙なことなのだが、何とかその雰囲気は、本連載の中で、いろいろな形で表現していきたいと思っている。

僕はギークではなくてスーツである。だからスーツを想定読者とする「日経ビジネス」や「フォーサイト」で連載をしている限り、ギークは何も言ってこない。たとえ読んでいて何か言いたいことがあっても、絶対に何も言ってこない。関係ないからである。でもネットでは違った。ということは、そこに「対話」や「理解」が生まれる可能性があるではないか、と思ったわけである。
そして、そういうことを学んでから、改めてシリコンバレーという土地の「面白さ」を考えたとき、やはり日本よりも、スーツとギークが語り合う共通言語のようなものがあることに気づいた。そしてそういう言葉が、英語圏のBlogには溢れているのである。
だから、そういう言葉をできるだけたくさん同時代的に集めながらスーツとギークの接点を探すことはできないかというのが、「英語で読むITトレンド」という連載の主旨として定着していったのである。
日本で、スーツとギークがお互いをかなり深く理解しあう場があるとすればそれは共同体の内部においてである。一つの会社に一生勤めるという暗黙の了解を結びながら、互いに親しい友人になる。そういう関係を結んだ上でスーツとギークが信頼しあっているというのは、日本企業の強さの源泉のひとつである。しかし「古い日本」的要素が少しずつではあるが「新しい日本」に置き換えられていく過程で、共同体に依存しないスーツとギークの相互理解がこれからは求められていて、それは言葉によるコミュニケーションによってしかあり得ず、そこには経験が不足している。
昨年12月にCNET上での連載をやめて三ヶ月たって、また本ダイアリーで再開した
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20050401/p1
のは、やっぱりそういう試みは続けたほうがいいんだろうな、と思ったからである。
以上、7回に分けて考えながら書いたきたけれど、これは極めて私的なBlog論、つまり「自分は何をBlogで書くのか、それはなぜか」ということを考える試みであった。日本のBlog世界全体がこうあるべきだというような「あるべき論」を書いたつもりは全くないので、「あるべき論」として読んでいただきたくはないのだが、部分が一人歩きしていく後姿は、まぁ本当にひどい誤解につながらない限りは、見守っていくだけにしようと思う。
同じテーマで延々と書き続けるのもそろそろだれる頃なので、僕の「Blog論2005年バージョン」はこの(7)をもって終わりとします。