Blog論2005年バージョン(1)

僕のBlog論の現在バージョンを、FPN梅田望夫氏 座談会レポート」
http://www.future-planning.net/x/modules/news/article.php?storyid=537
を解説する形で書いていくことにする。

Blogはテーマ性を強く持つべきか

まずは第三のQ&Aから。

Q: ブログを始めたコンセプトはどういったものでしたか?
UMEDA: CNETの連載が始まるまでのブログではプライベートのことなども書いていたわけだが、私が他の人のブログを読んでいて正直個人的なものを面白いとは思えなかった。そこで「テーマ性を持とう」ということで、どんなものが読まれて書き続けることができるかを考えた末に出てきたのが『英語で読むITトレンド』というテーマだった。

ちょうどこのコンセプトを固めていた時期が、個人サイトからCNET Japanへ移行する時期にあたり、昨日のエントリーの中で触れた
http://www.mochioumeda.com/blog/2003_03_09_archive.html#90622492
http://www.mochioumeda.com/blog/2003_03_09_archive.html#90682050
この二つの文章を書いた頃であった。2003年春当時の僕は「Blogはテーマ性を持つべきだ」と強く思っていたのである。

Blog論2003年バージョンと今の違いを総括してみる

(1) 自分の生活の一部を綴る日記のようなことは、まぁ書いても仕方ないし、あまり意味がないと思った。いくつかトライアルに書いてはみたものの、継続的に書き続ける理由を見出すことができなかった。
(2) 「趣味は読書。」と言えるほど本はたくさん読んでいて、読後面白かった本の感想を書きたいという衝動には何度もかられたが、BLOG的反射神経で書く文章は、感想文程度のクオリティにしかならないこともよくわかった。書評を書くと決めるなら、それなりの準備をしたうえできちんと書くべきだろう。
(3) メジャーリーグやら将棋やら、自分の趣味の世界については、ここで書いても仕方がないということもよくわかった。読者層の大半が興味を持っていないテーマについて書くのはただの自己満足に過ぎない。どうしても書きたければ、「将棋タイトル戦の観戦記」や「ワールドシリーズ観戦記」が書けるくらいの心構えで準備して、正しい媒体で書くのを目指すのが本筋だろう。
(4) 日本語コンテンツの紹介・引用・参照については、日本でもBLOGが流行ってくるときっと多くの人がやることになるだろうから、あえて僕がやらなくてもいいだろう。

この4点が2003年当時の総括であった。結論から言えば、(4)は今もあまり変わっていないが、(1)(2)(3)はずいぶん考えが変わった。
(1)については、まぁそれも楽しくていいじゃないか、というふうに今は思うようになっている。ジャックの写真やら薔薇の写真、そしてシリコンバレーB級グルメなど、「Silicon Valley Life」カテゴリー内はだいたい「自分の生活の一部を綴る」ものになっているし、前エントリー「はてなの食欲」もそうだ。大した内容ではないが、知人・友人から読んでいて楽しいと感想をもらえるので、禁欲的に「個人的なことは絶対に書かない」と決める必要はないな、と思うようになった。

個人の興味の広がりそのままに、テーマを選ばずに思いつくままに書けば、その個人が発散する臭気を避けることができない。よって、「その個人に対して強い興味を持つ読者(家族とか同僚とか知り合いとか)」以外にとっては、迷惑な夾雑物を含むコンテンツとなってしまいがちだ。

2003年に書いたこの文章については、今も「そうなんだよな、確かに臭気は発するんだよな」と思いつつも、Blogの面白さはそういう臭気を含んだものなのかもしれないなと今は思っている。

プロとして書いていく自信のあるテーマをBlogで書くべきか

次に、(2)と(3)は僕の中ではずいぶん違う問題である。何が違うか。それは、将棋とメジャーリーグというテーマは、いずれはプロとしてでも書いていく自信がある。でも、読書つまり書評は、専門領域の本の書評以外は、プロとして書く自信が全くない。未来永劫ない。
よって(3)については、そういうテーマで頑張って書くことを「Blog上で指向すべきか、それとも2003年に書いたように「正しい媒体」で書くのを目指すか」という選択になる。
一方(2)については、「そもそも読書感想文程度の内容をBlogで書くことに意味があるのか」という問題設定となる。
具体例を示そう。FPNの座談会で参加者の一人に熱狂的メジャーリーグ・ファンの編集者がいた。彼は僕がこの四月のメジャー開幕直後に書いた二つのエントリー、「ヤンキースの憂鬱」
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20050406/p2
と「ドジャースの新しさについて」
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20050410/p1
の二つのエントリーを絶賛してくれた。確かにヤンキースは今低迷を続け、ドジャースは快進撃を続けているわけで、そういうことを見通したという意味では、無邪気に自慢したい文章なのだが、彼に褒めてもらうまでは、Blogで本気になってメジャーリーグ評論を書いてもなぁ、どうせ誰もきっと読んでいないんだろうしなぁと半ば思っていた。
でも、この「誰も読んでないんじゃないかな」感というのは、雑誌でも全く同じだということに改めて気づいた。僕が1年前にプレジデント誌に寄稿したメジャーリーグについての文章「メジャーリーグを楽しむための経済感覚と歴史感覚」
http://www.mochioumeda.com/archive/president/040315.html
も、「マネーボール」が翻訳される前に原書で「Moneyball」を読んで書いた斬新なものと自負していたが、ほとんど誰からも反応はなかった。砂地に水を撒くようなものだなぁと思ったのをよく覚えている。将棋について言えば、最近はあんまり色々書いていないのだが、棋譜について書いたこの二つのエントリーは、
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20040601/p3
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20040601/p2
インターネットの将棋サイトでもピックアップされて、かなりの人に「読まれた」感があった。そんなこんなの経験を経た(3)についての今の結論は、「これからは、メジャーリーグと将棋のことについては、Blogを主戦場にできるだけたくさん書いていこう」というものだ。専門雑誌の世界で書くことをゴールだと設定する必要などそもそもないのだ。Blogでも面白ければ雑誌以上に「読まれる」に違いない。そんな確信を最近は持つに至っている。

書評と感想文・紹介は違うジャンルのもの

さて(2)についてはどうか。ここが一番迷い続けていたところなのだが、書評と本の感想文・紹介というのはそもそもジャンルが違うのだということに最近気づいた。2003年に書いた「BLOG的反射神経で書く文章は、感想文程度のクオリティにしかならない」というのは全く今もって変わらないのだが、それはそれでよいのだと思うようになった。端的な例は、「レオナルド・ダ・ヴィンチの手記」
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20050331/p1
である。僕の教養レベルでは、この本の書評など一生書けない。ただ、この本の冒頭の文章

 私よりさきに生をうけた人々があらゆる有益で必須な主題を自分のものとしてとってしまったから、私は非常に有益な、または面白い素材を選ぶことができないのを知っている。それで私は、ちょうど貧乏のために一番あとから市場に到着したが、他に品物をととのえることもできないので、すでに他人の素見(ひやかし)済みだが余り値打がないために取上げられず断わられた品物すべてを買いとる男のようにふるまうだろう。
 私はさげすまれ断わられたこの商品、数多の買手の残りもの、を自分のはかない荷物のうえにのせよう。そしてそれを大都会ではなく、貧しい村々に配り、かつ自分の提供するもの相応のお礼をもらいながらあるこう。

を読んで、これは親しい友人にどうしても伝えたいと強く思ったのである。それでこの短いエントリーを書いたわけだが、結城浩さんにピックアップされた他、何人かの知人から感謝されたりした。実は「レオナルド・ダ・ヴィンチの手記」の冒頭部分は、「「次の10年」とグーグルの弱点を考える」
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20050404/p1
という文章の中で素材としても使った。こういう使い方は、文章を書く上でのある種の王道なのだが、素材自身を単体で表現することにどれほどの意味があるかということについてはいつも悩んでいた。でもそれもOKだなと、最近思うようになった。「国家の罠
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20050412/p1
「半島を出よ」
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20050424/p2
も、書評ではなく、感想文ともいえぬ紹介にすぎないが、こういうのがBlogに含まれていてもよいのだと思うようになった。

メディアとBlogの関係

FPN座談会メモのこの部分は誤解を招くといけないので、少し補足しておきたい。

■CNETはブログをやるべきではない
UMEDA: CNETでの連載を経て、日本ではCNETのようなオンラインメディアのことも「権威」だと思っている人がたくさんいることを知った。そういう意味でも私は「CNETはブログをやるべきではない」と思っている。メディアは完全を目指すべきで、コンテンツには最終責任を持つべきものだ。翻って個人ブログは間違いもOKとされる世界だ。その二つの間は明確に分けておく必要はあると思っている。

このことはCNET Japan上で「Blog」と称して連載を続けながら、いちばん引っかかっていたことだ。CNET Japanに連載する僕に対して向けられるある種の敵意のようなもののかなりの部分が、「CNET Japan」という「権威」に対して向けられているものだという印象があったからだ。僕はもともと27歳の山岸君が編集長になった時点で、CNET Japanというメディアに、老舗出版社の雑誌などと比べて「権威」が存在しないところがいいと思っていた。
しかし、読み手の中には少なからず、「権威」であるCNET Japanというメディアが、どこの馬の骨かわからぬ若造を編集長に据えるいい加減さ、そして校閲の入る余地のないBlogなどといういい加減な言説を影響力を伴ってエンドースする、ということに嫌悪感を持つ人がいた。若い人たちの中にも、そういう考え方をする人が多いのは「想定の範囲外」であった。
「大した内容でもないのだから、無理して毎日更新するな。ダメなときは休め」といったコメントに対して、「面白くないなら読まなきゃいいだけじゃないの、どうしてそんなコメントわざわざ書くんだろう」と思ったけれど、これはCNET Japanというメディアの「権威」が本来行うべきQCが行われていないことに対する批判という側面が強かったように思うのだ。
たとえば現在CNET Japan上で連載されている江島健太郎さんのBlog
http://blog.japan.cnet.com/kenn/
は、毎日更新ではないし、Blogというよりはコラムである。新編集長によるある種の校閲も入っているのだろうと思う。これならば、雑誌や他のオンラインメディアのコラム連載と何も変わるところはない。座談の中の「メディアは完全を目指すべき」という意味はそういうことである。
僕は新潮社「フォーサイト」誌で「シリコンバレーからの手紙」というコラムの連載を毎月休まず9年近く続けている。その連載を持ち始めた頃、「新潮社(あるいは既存メディア)は凄いなぁ」と最初に思ったのは、新潮社校閲部の仕事ぶりを経験したときであった。シリコンバレー周辺の自然環境の話題を書いたとき、こんな描写をした。

海にも山にも近く、一年中アウトドア・ライフを楽しむことができる。北に四時間車を走らせれば全米有数のスキーリゾート、レイクタホがあり、西に同じく四時間でヨセミテ国立公園に行ける。

と書いた。ゲラには、「ヨセミテシリコンバレーから東の位置にあるのではないでしょうか」と朱が入って戻ってきた。そうだ。筆が滑って「西に」と書いてしまったが、西に四時間も向かったら海の中だ。校閲とはこういうことだ。歴史小説時代考証なども全部やる新潮社校閲部にとっては朝飯前の指摘なのだろうが、他の新興出版社の校閲はずいぶんゆるいというのをあとで知ったから、新潮社・校閲部は大変なコストをかけて、文章のクオリティ管理を行っているわけである。Blogだったら、コメント欄で「ヨセミテは東だ、バカ」とか書かれて、「ありがとう、直しました」なんてやり取りが行われるかもしれないし、そのまま放置されるかもしれない誤りに対して、しっかりと責任を持つ(あるいは責任を持とうという意志を持つ)のがメディアなのである。Blogとメディアの関係についての議論が盛んだが、僕はこのあたりを峻別すれば、何か両者が棲み分けるポイントがあるのではないかと思い始めている。