若い頃の父を知る人と話すなんて何年ぶりのことだろう

東京で作家の坂上弘さんにお会いした。
近くて遠い旅 啓太の選択
坂上さんは、1960年代半ばに交通事故で他界した親友・山川方夫を今でも大切に思い続け、全集の編纂や年譜の作成など厖大な労力のかかる仕事を淡々と続けてこられた。坂上さんがお書きになられた山川方夫年譜(「愛のごとく」講談社文芸文庫所収など)に、
愛のごとく (講談社文芸文庫) 安南の王子 (集英社文庫) 夏の葬列 (集英社文庫)
25年前に亡くなった父の若い頃のことがずいぶんたくさん出てくるのをつい先ごろ知った(山川の年譜の概略は、ネット上ならここで
http://homepage2.nifty.com/anzai/nenpu.htm
読むことができる)。
そのことを旧知の出版社の友人に話したところ、坂上さんから「一度お会いしましょう」とお誘いいただくことになり、新装なった交詢社
http://www.keio.ac.jp/mamehyakka/38.htm
で土曜日にランチをご馳走になった。
坂上さんはリコーに37年勤めたあと、今は慶應義塾大学出版会
http://www.keio-up.co.jp/company/company.html
という出版社の経営者である。お話を伺うに、リコーでの37年間も現在の慶應義塾大学出版会の仕事も完全なフルタイム・ジョブとのこと。物腰の穏やかな大人(たいじん)の風格は、作家活動とビジネス世界での長い経験が融合されたゆえのものだと思った。
「あなたの少年時代はというと、梅田さん(父のこと)が借金取りから逃げ回っていた頃ですよね。」
意外なところから話が始まった。さすが作家は違うなぁ。
あんまり人に話したことはないけれど、父はあるとき不向きな会社経営なんぞを始め、ついにその会社を倒産させてしまうという大変な時期があった。僕が小学校2年のときの記憶だから曖昧な部分もあるが、ある日突然、ランドセル一つで住んでいた家を出ることになり、新宿の旅館やら知人の家を転々としながら学校に通っていたこと。父が財産を全部処分したりもして、何年かかけてその借金を全部自分の責任で返したこと。そしてそれを誇りに思っていたこと。父の死後十年が過ぎてシリコンバレーと出会い、借金をしなくても起業ができるメカニズムに心から感動して、それ以来シリコンバレーに惹かれて住み着いてしまうに至ったこと、などなど。長いこと封印していた父の思い出で話がはずみ、僕にとっては時間を超越した至福の時であった。
「じゃああなたは、ずっと貧乏だなぁ、という感覚を持ちながら、少年時代を過ごしたんですね。」
ふと話が途切れたとき坂上さんからこう聞かれた。
父は根が贅沢な人であったから、生活苦というほどの貧乏感を子供たちに味わわせる人ではなかった。でも子供心に家計がギリギリで賄われていることはとてもよく理解していた。そして、二十歳のときに父がほとんど何も残さずに亡くなったので、それからしばらくは、友人たちに比べるとずいぶんカネのことでは苦労してきたと思う。僕のそんな返答を聞いて、
「本当に良かったですね。」
坂上さんは噛みしめるようにこうおっしゃった。
今になって振り返れば、そんな子供時代以来の経済的環境が、確かに自分にとって良かったなぁと思うのは真実なのである。
「でも梅田さん(父のこと)はね、失敗したんですよ。借金取りに追われて逃げるっていうのは、やっぱり失敗なんですよね。あなたは失敗してはいけませんよ。」
この坂上さんの言葉は、そのときはすっと通り過ぎていったのだが、何日かたって振り返ってみると結構重く心に残った。やっばり身内だからということもあり、また僕は父をとても好きだったし尊敬してもいたから、父を「彼は失敗したんだ」というふうに総括したことはこれまでなかった。ちょっと迂闊だったかなとも思う。客観的には全くその通りなんだから。
父が「失敗」したのは40代後半の頃。僕もあと数年で、その頃の父の年齢に差し掛かる。坂上さんは父のもっと若い頃を知っていたから、父についてのある種の「落差」が強く印象に残っていたのだろう。そして今の僕に父の若い頃の姿を重ねて、ふと後輩を心配する気持ちが心をよぎったのだ。それが、
「あなたは失敗してはいけませんよ。」
という言葉になったのだ。一週間たってそのことに気づいた。