「何かの専門性」と、「好き」を共有する友達のネットワークと、そこに働きかける「営業力」

さて「好き」を核にして「「個」として強く生きること」を目指すための、小林秀雄の言う「ほんとうの助言」の試みを続けてみよう。
現在から未来にかけて「好き」を貫いていく以上、リアルとネット(SNSのコミュニティなど)の両方で「好き」を共有する友達のネットワークはある程度できているだろう。そこをちゃんとメンテナンスするのが大切だ。その中にどんな人達がいて、リアル世界で皆、何をしているんだろうと。友達って言ったって同世代ばかりじゃなく、大きな仕事をしている中高年の富裕層だって含まれるだろう。人付き合いが苦手だって、「好き」を共有する友達が相手なら、敷居はずいぶん低いだろう。
それで、そこに働きかける「営業力」を持て、というのが次の提案だ。それによって、「好きで飯が食える」で足りなければその分を補うのだ。組織に属さずに。あくまでも自主的に。貴重な時間という希少資源を自分でコントロールしながら。コモディティ化し規格化された時間給仕事には手を出さず。
人は誰しも「何かの専門性」を持っているはずだ。それが「好き」に関連して経済的意味を持つものであればベストだが、前エントリーで書いたように戦略的に取得した「ウェブ・リテラシー」を生かしたような専門性でもいい。人は誰しも一つだけの「好き」に没頭しているわけではないから、複数の「好き」を組み合わせたスキルもあるだろう。そういうものを「何かの専門性」と呼ぼう。その「何かの専門性」をちゃんと言葉にして定義するんだ。
そしてその「何かの専門性」を、「好き」を共有する友達のネットワークに働きかけて、何とか飯が食えるような「カネ」に変えるのが「営業力」だ。
「好き」を共有する100人の友達を常時メンテナンスして、10人から某かの仕事を引き受けるようなイメージ。そういう「営業力」を持てよ。そう強く勧めたい。
「営業力」と言ったって、「売れそうもない商品」を担いで「飛び込み営業しろ」なんて言っているんじゃない。売る相手は「好き」を共有する仲間。売るのは、あなたの専門性を生かした「対人サービス」だ。専門性によって時間単価は異なる。アメリカでは、職を失って次の仕事が見つかるまでの間、皆、自分の時間単価を専門性に応じて定め、友達のネットワークをあたって、その友達が困っている仕事を手伝ってカネを稼いで凌ぐ。でも次の定職につくよりも、そんなふうに気楽に知り合いの仕事をあれこれと手伝いながら、生活の固定費を少し下げて、楽しく暮らしている人達もけっこういる。すべては何か「カネに換えられる専門性」を、自分のこれまで生きて身に着けてきた知的スキルの組み合わせによって定義するのだ。
それでその「何かの専門性」を売る「営業力」を身につける。大切なのは「安請け合いはしない」と決心することだ。ここが「営業力」の肝だ。弱気になって価格破壊すれば、いくらでも売れるがそれじゃいけない。
どうだろう。そんなに難しいことじゃないと思わない?
ウェブ進化は、これまで以上に人と人とを結びつける。そしてその誰もが、リアル世界で困っていることがある。そこには需要がある。カネが回る。それを掘り起こして自分のスキルとマッチさせてカネを稼ぐ。そういうことが昔よりもずいぶん容易にできるようになった。たとえば「ウェブ・リテラシー」を持てば「好き」の周辺でかなりの確率で「時間効率の比較的よい食える仕事」が見つかるだろう。知的な仕事なら、多くの場合、在宅でできたりもする。ネット上で世界中から「時間あたりの求人」が出ている世の中でもある。そういうことにも必要に応じてトライしたっていい。「営業力」に自信がつけば、「好き」を共有する友達のネットワークの外へ、仕事の可能性を広げていったっていい。
そんな組み合わせてゴチャゴチャと稼いでいくのだ。そのときに大事な「営業力」のベースは、行動力とコミュニケーション力。でも、その行動力とコミュニケーション力って、世の中で言われているような、とんでもなく凄い行動力とコミュニケーション力じゃない。創業のエネルギーとか、大企業で「上20%」を目指すためのパワーなんていらない。
こういうことの延長線上に、自営業とか、独立コンサルタントとか、スモールビジネスとかがある。そこまで目指すかどうかは個人の選択だ。でもこういう職業のいいところは、貴重な自分の時間という資源の配分を、自分でコントロールできるというところだ。そのうち、だんだんに「好きで飯が食える」状況がよくなっていくかもしれないし、そんなことをやっているうちに、面白い出会いがあって、チャンスが巡ってきて、しばらくはこの仕事に没頭してみようなんてことになるかもしれない。
いくつか前のエントリーの感想の中に「大組織にぶら下がって、好きなことをやるのがいい」という意見があったけれど、そういう生き方(たとえば、そういう生き方を長いことしてきた人が何かの理由で大組織を出ざるを得なくなると全く競争力がない場合が多い)よりも、「好きを貫く」と「飯を食う」の接点をしつこくしつこく追い続け「営業力」を持って収入源を分散させるこちらの生き方のほうが絶対に変化に強く、したたかにしなやかに「好きを貫く」ことができると僕は思う。
これも空論じゃないよね。どうだろう。

「「個」として強く生きること」と「ウェブ・リテラシーを持つこと」の関係

大組織適性の話はちょっとここで一段落。
具体例がどうも「一流大企業で自己実現」か「ベンチャー創業」かみたいになると、敷居がおそろしく高い話になってしまうが、僕の意図はちょっと違う。
「大企業かベンチャーか中小企業か・・・」という構図も違う。
「個と組織の関係や距離感」における「個の強さ」みたいなことを議論したい気がしている。またその観点で、具体的に何をしたらいいかという話に、だんだんにつなげられたらいいと思う。話が抽象的だとかなんか怒っている人がいるけれど、そうあわてるな(よく読みもせず、人が真剣にやっていることの意図を理解しようともしないで、どうして急に怒ったり激しく批判したり茶化したりする人が多いんだろうね)。少し抽象的な枠組みのところで「面白さ」や「創造性」のフレーバーを振りかけた議論から入らなければ、多くの人が同じフレームワークの中で議論できるようにならないでしょう。
「好き」なことがある。それを生涯にわたって貫きたい。でも「「好き」の本流でプロになって飯を食う」というのはとてつもなく大変だ。「文章を書くのが好きだから作家」「音楽が好きだから音楽家」「絵が好きだから画家」「野球が好きだからプロ野球選手」という小学生の「夢」みたいなのは道が細すぎるわけだ。「好き」の核になるような「What」のニッチの周囲で、自分の個性、「向き不向き」の要素も勘案し、「自分に向いた生き方」(嫌なことはできるだけせず)をしながら「飯が食える」状態が、生涯全体の中でできるだけ長いといい。どんな生き方を選んだってけっこう大変だ。その中で、これはそんなに無理なイメージではないと思いたいし、ウェブ進化はそういう生き方に対して追い風だと思うのだ。
そういうゴールをイメージしたとき、リアル世界においてどれだけ自由度を持った生き方ができるかがとても大切になる。組織はよくも悪くも人を時間的に縛る。でも組織を離れるのは不安だ。そういうジレンマの中で思考停止してしまう場合が多い。たとえば三十代半ばで一年くらい「好き」を貫いて暮らしてみたい、ということをイメージしてみよう。それは「イメージしちゃいけないようなこと」なんだろうか。おそろしく能力の高い人以外には許されない贅沢なんだろうか。僕はそう思いたくないのである。
「個と組織の関係や距離感」における「個の強さ」を追求する生き方を、若いときから意識的にしてさえいれば、「組織から距離を置いた人生」を、「荒波の中を泳ぐ」という比喩より「雨の日に自転車に乗る」くらいの気軽さのところに位置づけられるようにならないだろうか。「個と組織の関係や距離感」における「個の強さ」を追求するっていうのは、あるときは組織に軽く属してみたり、またやめて違うことをしてみたり、ベンチャーに入って一発当ててやろうと思って没頭する時期が何年間かあったり、自営っぽいことをしたり、ウェブの分身にカネを稼がせたり、色々なことをゴチャゴチャとやりながら、「一つの組織に属したらもうそれで一生」みたいな考え方をせずに生きていく生き方のことだ。こういう生き方でやっていけそうという自信がつけば、日々の「時間の使い方」にメリハリが出せる。少しお金を貯めれば、職を切り替わるときにしばらく「好き」に没頭する時間を作ったりもできる。そういうイメージを実現するために何をしたらいいか。それには、何かの投資をしなくちゃいけない。
そんな「個と組織の関係や距離感」における「個の強さ」を追求するために、何に投資したらいいかを考えたい。「英語」というのは相変わらずあるんだろう。でももう少し未来志向に。
仮に、自分が18歳で「好き」なことがあって(それはITとかウェブとは全く関係ないと仮定する)、それを「核」に、組織に強く依存した生き方をしないで「好き」を貫きたいとする。インターネットはユーザとして好きだ。そんな自分をイメージする。
そのとき「ウェブ・リテラシー」を徹底的に身につけるっていうことは、自分が18歳だったら絶対にしておきたい、という気がするのだ。理系文系を問わず。
ではウェブ・リテラシーって何?
たとえば、ネットの世界がどういう仕組みで動いているかの原理は相当詳しく徹底的に理解している。ウェブで何かを表現したいと思ったらすぐにそれができるくらいまでの能力を身につけている(ブログ・サービスを使って文を書くとかそういうことではなくて)、「ウェブ上の分身にカネを稼がせてみよう」みたいな話を聞けば、手をさっさと動かしてサイトを作って実験ができる(そこに新しい技術を入れ込んだり)。広告収入の正確な流れも含め「バーチャル経済圏」がどういう仕組みで動いているかの深い理解がある。新しい技術も、ネット上で独学できる程度までいけるベースとして、ITやウェブに対する理解とプログラミング能力を持つ。・・・・・・
ウェブ・リテラシーをあえて挙げたその理由は、
(1)独学に向く領域で、(2)若者に有利な領域で、(3)その世界の頂点を目指さなくても自分よりもリテラシーのない膨大な数の人(特に年上の人たちでカネを持っている人達の層)より上にいくことは容易に目指し得るし、(4)これから何十年にもわたって「リアルとネットの境界領域での需要」はあらゆるところであり続けるから他のスキルに比べればつぶしがきく、(5)「好き」と「表現」の接点では、そもそもものすごく重要なスキルなので「好き」の延長上での自然な営みとして身につけられるかもしれず、(6)学歴とかあまり問われず「今何ができるか」が求められる傾向にある・・・・・・
小林秀雄が「作家志願者の助言」という文章の中でこんなことを書いている。

文学志願者への忠告文を求められて菊池寛氏がこう書いていた。これから小説でも書こうとする人々は、少なくとも一外国語は習得せよ、と。当時、私はこれを読んで、実に簡明的確な忠告だと感心したのを今でも忘れずにいる。こういう言葉をほんとうの助言というのだ。心掛け次第で明日からでも実行が出来、実行した以上必ず実益がある、そういう言葉を、ほんとうの助言というのである。

「文学志願者」への「少なくとも一外国語は習得せよ」にあたるものとして、「「個」として強く生きること」を目指す人に「ウェブ・リテラシーを持つこと」を提案してみたい。このあたりはきっと読者の方々のほうがうんと深い知見を持たれていることだろう。僕の助言は空論だろうか。「心掛け次第で明日からでも実行が出来、実行した以上必ず実益がある」んじゃないかな。そんなに簡単にコモディティ化しないと思うし、コモディティ化したってマーケットがある程度大きければ意味があるものね。「ウェブ・リテラシーを持つこと」って大変だぁって思う人もいるかもしれない。でも「英語の習得」や「一流大学理系学部に入るための数学と物理の習得」と比べて、どっちが大変だろう。そういうふうに考えてみてほしいのだ。何かはやらなくちゃいけないんだからさ。
もちろんそもそも「ウェブ・リテラシー」って何なのとか、文中で「・・・・・・」と書いた部分に加えるべきこととか、きっとたくさんのご意見があることだろう。建設的なご意見・ご批判Welcomeです。