Blog論2005年バージョン(6)

次に、情報がオープンであることの価値、情報を発信することの価値について書こうと思っていたが、これまでのエントリーに対する2つのトラックバックを読むことから、そのテーマを考えたいと思う。

「したいのにできない」のか「そもそもしたくない」のか

企業人の情報発信について、僕のこれまでの論で欠けていた部分を補ってくださったのが、id:codemaniaxの「Re: 誰がBLOGを書くのか」
http://d.hatena.ne.jp/codemaniax/20050429
である。企業人でもかなりの数の人が、情報発信自身の価値を理解し、情報がオープンであることによって生ずる意味を理解しているという前提、つまり「したいのにできない」という前提で、僕は「忙しさ」だとか「組織の問題」とか「専門家の姿勢」全般についての日米比較などを取上げてきた。しかしそもそももっと根本的なところに問題があるんだよ、と言っているのがこのエントリーだと思う。そしてご自身のオープンソース・コミュニティへのコミットメント経験やそこで生まれた価値を踏まえて、このエントリーはとても説得力がある。確かに(4)でご紹介した吉岡さんのエントリーの中にも、

日本の企業に長年努めていて、情報発信を自らしなければいけないという状況というのはまずない。そもそも自由に発言をするインセンティブがない。そーゆー訓練もしてきていない。

という文章が出てきたわけだが、この部分に呼応した内容でもある。彼の結論は、

まぁ、「総論賛成各論反対」のカルチャーとか日本的大企業の陰湿さとかいろいろあるんだろうけど、やっぱり、そういう「経験」がない、そしてメリットが分かってないことが一番の要因なのだろうと思う。

である。

でも、そういう価値観は、そういう経験をしていない人たちには絶対に分からない。それはこの会社に入って、今の職場の人たちを見ていて実感した。「コミュニティ活動をするモチベーションは何?」とよく聞かれるのだが、基本的には自分をアピールする場であり、自分の会社以外の人たちと協働作業をする場である。そういうところでの活動や人間関係が、いざというときのリスクヘッジにつながったりする。
そうすることに何のメリットがあるのか知らない人は非常に多い。で、そういう活動を否定的に見る人も多い。否定的に見るだけならまだしも、他人のやっていることを否定しようとする人もいる。僕がもっとも不快感・反発を覚え、この人たちとは相容れないと感じる一瞬である。最近は、そういう人たちには「(終身雇用を前提に)沈没する船にずっと乗ってれば」と思うことにしている。

(4)で書いた「新しい日本」と「古い日本」の鮮やかな対比にもなっている。是非ご一読されたし。

Blogを書くことで成長するということ

そしてもう一つは、「fladdict.net blog」の「知的生産性のツールとしてのブログ」
http://www.fladdict.net/blog-jp/archives/2005/04/post_48.php
というエントリーである。彼の結論は、

実際ブログを書くという行為は、恐ろしい勢いで本人を成長させる。それはこの1年半の過程で身をもって実感した。

デビューしたての1年半前のアホ文章と最近のエントリを比較すると一目両全だったりする。劇的ビフォーアフターですよホント。

ブログを通じて自分が学習した最大のことは、
「自分がお金に変換できない情報やアイデアは、溜め込むよりも無料放出することで(無形の)大きな利益を得られる」
ということに尽きると思う。

という極めて本質的な言葉にまとめられている。引用の最初二つは「自らが成長する」ということ、引用の最後の一つは「情報をオープンにすることの価値」ということである。

情報をオープンにすることの価値

前者については原文を当たっていただくとして、後者について詳しく書かれている部分をもう少し引用させていただく。

以前も情報をブログに載せるメリットみたいのを書いたけど、いくら情報を個人で囲い込んでも、情報や技術はそう簡単には独占できない。短期的に独占できても、いずれは誰かが類似技術を発表してしまったりする。ところが逆に自ら1次情報の発生源となっしまうと、それはお金には成らなくても、名声、評価、人脈といったモノに変化するようだ。たまには何故か自分が情報のアドバンテージを握れたりもした。一方で身の丈以上の評価をされて、困惑や恐縮することもありまくりでした。

引用文中から引用されている「開発者の為の実装系webマガジンCodeZine」というエントリー
http://www.fladdict.net/blog-jp/archives/2005/04/webcodezine.php
も面白い。

まず個人にとってのオープンソースとかブログとは何か。それはポートフォリオであり、面接であり、己の能力と生き様をそのままプレゼンテーションの装置として機能する。リファラーやTBは、業界内のリテラシーの高い人間の位置を教えてくれるし、記事を書き続けることで人との繋がりも生まれていく。転職活動をする場合、相手が読者ならば自己へのコンセンサスがある状態から交渉を始めるアドバンテージを得られる。それだけのものが、金も人脈も後ろ盾のない人間が手に入れる唯一の手段が、情報の開示なのだと思う。

ここは、個人にとってのオープンソースやブログの意味についての部分だが、

いつも思うのだけど、僕みたいな業界の辺境の住人にとって、コードや技術は隠すよりもオープンにするメリットのほうが絶対に大きい。サービスをパッケージ販売できる体力があるならばともかく、サイトレベルでのウェブ製作業のような世界では技術の独占にメリットは殆どないように思える。なぜならば技術を独占したところで、1社が全ての顧客を独占することが不可能な世界だからだ。だからゲームのルールとしては「いかに1つの最先端技術を持つか」ということではなく「いかに多くの技術で上位陣に属せるか」の方が重要なんだと思う。
この2−6−2の法則に基づいた椅子取りゲームでは、オープンソースあるいは情報公開は極めて強力な武器となりえるんじゃないだろうか、個人にも企業にとっても。

この指摘は、企業戦略論の観点からも鋭いものである。最初にご紹介したid:codemaniaxのエントリーでも、オープンソース・コミュニティでのご自身の活動がリアル世界でもいかに実質的に有効だったかが詳述されている。こうした基本的考え方が浸透していくと、企業人の情報発信も少しずつ進んでいくのであろう。僕自身のこの部分についての感想は、短期悲観・長期楽観という感じである。

Blog論2005年バージョン(5)

本欄のBlog論(1)-(4)を巡って書かれたエントリーやコメント、そのまた先へのトラックバック・・・というふうに読んでいくと、日本におけるBlogに対する現在の関心のあり方みたいなものが俯瞰できて面白かった。噛み合う議論、噛み合わない議論、いろいろあるが、そういうものの総体を感じることで、Blogの今を把握できて勉強になった。
そんな中、さすがと思ったのは「finalventの日記」である。この日記は「詩」である(と僕はいつも思っている)から、解釈するよりも言葉をまるごと味わうほうがいい。R30氏の「ブログブームのおわり」に対して書かれた4月27日のエントリー
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20050427/1114576153
では、

 ブログでの心というか魂というか交流はどうでもいいとは思わない。しかし、そこに魂の孤独みたいなものと関わるなにかは、すごく少ない。幸い、私の魂というかは、神に感謝すべきか、救われているように思う。
 それでも、自分がブログとやらの可能性に賭けないなら、可能性を言うのも虚しい。賭けは身銭を切ったものだけのものだ。たぶん、生きるということもそうなんだろうと思うし、特に変わりない。
 あと……、ちょっと思いが残るがうまく言えない。

とある。続きがきっとあるだろうなと楽しみにしていたところ、翌28日には2つのエントリーがあった。
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20050428/1114672317
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20050428/1114672684
である。彼の「詩」に対して、野暮を承知で解釈・理解を試みれば、いくつかの重要な論点がある。

ふーん、そーだよねー

まずは「サイレントな読者を信頼する」という姿勢で、このことは氏が繰り返し書かれていることである。そしてその論点の意味が、このエントリーではより詳しく語られていて貴重だと思った。

 大抵の場合、大衆の健全な常識はこうした場合に無言なものだ。が、その無言がかつては、ある実際的な社会連帯の実感を伴っていた。現代ではそれがない。現代では、実体的な社会でのそういうコミュニケーションはないし、復権もできない。
 そうしたとき、ブログなりは、ある種、フツーなふーん、という常識的な連帯の水準を形成しえるように思う。
 むしろ、その連帯の水準は、専門的な知識による審判をそれほど必要としない。
 そうした連帯が必要なのは、すでに旧来のメディアが別の組織性(含権力)という側面を明かにしてきているためだ。
 必要なのは、ふーん、そーだよねー、である。
 例えば、これとか⇒らくだのひとりごと: 席を譲らなかった若者
 気の効いた意見というより、ふーん、そーだよねー、である。
 これを読んだ人がその若者のような行動をするかといえば、しないのではないか。ただ、こうしたエントリーを読みながら、ふーん、そーだよねー、というふうに意識を再確認するという連帯があると思う。そしてこの弱い連帯性は、デュルケム的な意味での連帯の代用にもなるだろう。

には、「ふーん、そーだよねー」と確かに思いました。デュルケム的意味って何なのか知らないけど。

既存回路

第二の論点は「既存回路」に対するBlogの新しい可能性についてである。

 所謂ジャーナリズムや論壇?その手の側からは、ブログってレベルが低いというわけで、私などもそう言われる。いずれにせよ、日本のブログのレベルは低いということで円満な結論がでて、終わりというになっているのかもしれない。

 ちょっと誤解される言い方になるけど、宮台真司浅田彰が読まれるのは、既存系では、その名前のブランドなので、そのブランドを落として内容だけがブログにあるということは、理論上はあり得ても、ない、という建前になる。
 だが、だからといって、それだけのブランドに匹敵するクオリティがあればいいとも、逆に、ブログ側でブランド的な書き手が出るということも、あまり関心が向かない、のは、それが、結局既存の回路だからだ。

氏の言う「既存回路」とは「所謂ジャーナリズムや論壇?その手の側」、あるいはそれと同じロジックが及ぶ範囲のことなのだろうと思う。今の凡庸なBlog論の大半に対して氏の「関心が向かない」のは、逆に氏がBlogの可能性を高く評価し、「既存回路」を超える新しいロジックが生まれることに期待しているからだと思う。

結局、Blogを書いて飯が食えるか、にいきつく

ところで僕が一連のエントリーで書いているBlog論の主対象領域は、人文系ではなくIT産業/テクノロジー/ビジネス系である。そこに限って話をすれば、「別の手段で飯を食えている人たち」がたくさんいて、そういう人たちの中に貴重で重要な情報が存在する。だから「Blogを書いて飯が食えるか」などということは特に考えずとも、自らが成長するために、あるいは知が議論によって深まっていくことによるプラスだけで十分と考えて、どんどんオープンソース的に知をBlog空間に吐き出してほしいな、と思っているわけだ。アメリカやシリコンバレーではそういうことが起きている。(ただ誤解なきように付け加えれば、発明とか特許や企業機密に関わるような「絶対に出せない情報」だけが貴重な情報だというわけではない。出版物にも書かれないような「絶対出せない情報」がBlog上にどんどん書かれることなど最初から期待してもいない。)
しかし人文系はそうはいかない、というのが氏の論点である。

既存回路もよい点は多い。なにより収益モデルがしっかりしている。意見とか書いていてもそれなりに喰えるやつは喰える。ブログで喰えるやつはない。というか、そういうモデルをついに出せなかった。ま、最初から無理無理ではあった。

じゃ、ブログで喰えるようにするかという模索は、それこそ、取り敢えず、結論は出ただろう。失敗。誰も成功していない。
 じゃ…というあたりが問題でもあるのだが、けっこう、その部分は地味な地平(NPO的な)になる。

「意見とか書いていてもそれなりに喰えるやつは喰える」という状況がBlog空間にできるかできないか。氏はここを重要視するわけだが、同時に悲観的である。

アドセンスやアフィリエートと人文系の親和性

今のところ「Blogを書いて飯が食えるか」についてのビジネスモデルで最も有望なのがアドセンスとアフィリエートであることは多くの人の意見が一致するところだろうが、結局は物販と広告費を原資とした分配であるから、人文系との親和性は決して高くない。今、アドセンスやアフィリエートで大きく稼ぐためには、何を書けば稼げるかを考えて「狙いすまして書く」という行為が不可欠な状況にある。
ただ「狙いすまして」書けばある程度稼げるということを侮ってはいけないと僕は考えている。このあたりについては、去年の夏ごろに書いた

  • シリコンバレーからの手紙・第97回「グーグルは世界を「より良い場所」に変えるのか」(2004年9月)

http://www.shinchosha.co.jp/foresight/web_kikaku/u97.html

  • シリコンバレーからの手紙・第96回「グーグルが作る新たな経済圏」(2004年8月)

http://www.shinchosha.co.jp/foresight/web_kikaku/u96.html
を読んでいただきたいが、一部引用する。

リアルワールドにおける「富の分配」は、巨大組織を頂点とした階層構造によって行なわれるのが基本であるが、その分配が末端まであまねく行き渡らないところに限界がある。しかしグーグルは、「いかに対象が厖大であれ、インターネットにつながってさえいれば、その対象は同時にきめ細かく低コストで処理可能である」というインターネットの本質を具現化することで、そんなリアルワールドにおける「富の分配」メカニズムの限界を超えようとしている。上から下へどっとカネを流し大雑把に末端を潤す仕組みに代えて、末端の一人一人に向けて、貢献に応じてきめ細かくカネを流す仕組みを作ろうとしているのだ。
 先進国に限らず世界中の誰もが、自前のウェブサイトを立ち上げて少々の努力をすれば、月に数千円、数万円レベルの収入がグーグルからもたらされる「アドセンス」という仕組みは、経済的格差是正についての新しい可能性を開いている。

誰がまずこの新しい「富の分配」メカニズムの恩恵を蒙るのか。英語圏発展途上国の人たちだ。彼等が「狙いすまして」書けば、生活へのインパクトは多大である。これは既に始まっていることだ。では果たして、生活コストの高い先進国における人文系Blogにまで、この恩恵が巡ってくるのか。確かに、そこについて今は懐疑的にならざるを得ない。「狙いすまして書くなんてできねぇ」とか言いながら働かずに先進国の生活水準を享受するなんて、そりゃあ贅沢すぎるものな、世界全体を眺めたら。だから確かにそこまで面倒見るには、新しい仕組みが必要だ。「その部分は地味な地平(NPO的な)になる」がfinalvent氏の結論である。