Blog論2005年バージョン(4)

Blog論2005年バージョン(2)に対して吉岡さんからトラックバックをいただいた。
http://d.hatena.ne.jp/hyoshiok/20050427
対比としてシリコンバレーのカルチャーについて書こうかなと思っていた矢先に書いていただいた感じなので、是非ご一読されたい。

共同体への忠誠心

守秘義務ウンヌンカンヌンという話は確かになくはないがそれだけで説明できるほど話は単純ではないと思う。米国で働く時にだって入社一日目にNDAへのサインをするし常識の範囲での守秘義務はある。

守秘義務?何それ?もちろん、製品の出荷スケジュールとか顧客の障害事例とかの話題はないが、技術に関する議論は、非常にオープンにされている。細かいことは隠してもしょうがない、シリコンバレーと言う地域で共有するくらいの暗黙の了解があるんじゃないかと言うくらい、オープンである。

ここで注意してほしいのは技術情報といっても、企業秘密に属する類のものではない属人的なノウハウだとか、ある種のコミュニティの暗黙知みたいなものである。そーゆーものがシリコンバレーのコミュニティでは共有されている。

日本の企業に長年努めていて、情報発信を自らしなければいけないという状況というのはまずない。そもそも自由に発言をするインセンティブがない。そーゆー訓練もしてきていない。上司が「今日は無礼講だからどんどん言いたいことを言って〜」なんて言う言葉にのって本当の事を言うのは単なるバカであるかサラリーマン漫画の主人公だけである。守秘義務がうんぬんかんぬんというのは後付の理屈に違いない。

このへんを取っ掛かりに議論を進めていくのがいいのかなと思う。
僕が一つ前の(3)のエントリーで書いた

日本企業の「守秘義務」についての解釈はかなり厳しい。明文化されているいないにかかわらず、大抵のことについて、個々の「共同体の成員」が、共同体の外に向けては「書けない」と自己規定して暮らしていたほうが無難である。それは、ルールが極めて恣意的に運用される場合が多く、また後でルールが変わったりすることも多いからだ。このあたりは大げさに言えば、先日ご紹介した佐藤優国家の罠
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20050412/p1
が描く日本像の恐ろしさとオーバーラップする。

という問題意識とも重なっている。
僕が吉岡さんに同感するのは「守秘義務」自身よりも、その解釈・運用のほうに日本的事情があると思う点である。吉岡さんの言う「企業秘密に属する類のものではない属人的なノウハウだとか、ある種のコミュニティの暗黙知」は、日本でもBlog言論空間に溢れ出して不思議はないのにそれがなかなか出てこないのは、「どこまでが守秘義務なのか」のルールが日本の場合はぐずぐずで、外に向けて情報発信しないことが「共同体への忠誠心」をはかる尺度になっているようなところがあるからだと思う。そして何かの理由であるとき共同体から村八分になると、過去に遡ってルールが恣意的に解釈されなおして、「えっ、それ皆やっていたことでしょ。昨日までそのルールはOKだったんじゃないの?」というようなことで罰せられてしまう、というような陰湿な恐ろしさが、日本組織には内在しているからだ。だから組織の側はルールを明文化しないのに、個人のほうでルールをどんどん拡大解釈して自己規定し、外に向けては何もしない(場合によっては組織内でも公けには正論を吐かない)ほうが無難だという判断をする。これは、個人の問題というよりも組織の問題なのである。大仰にも佐藤優の著書を引き合いに出したのは、そういう理由からだった。

「新しい日本」に注目したい

また「aoshimakの日記」
http://d.hatena.ne.jp/aoshimak/20050427

アメリカ人が持つ「自己主張の強迫観念」を引き合いに出すなら、日本人が持つ、

  • 正論を言うとしらける社会風潮
  • 実内容の評価が出来ない/訓練されていない
  • 足引っ張り大好き

あたりをカウンターパートに配置して比較展開して欲しかった。よく有名人に向けて「有名税なんだから云々」などという言葉が使われたりするが、日記やblogなんぞ書いて注目を集めようものなら、実入りはないにもかかわらず有名税だけが増えて損するばかり、という状況を無意識に感じるのではないか。匿名というのはそこに起因するのではないだろうか。同時に、足引っ張り大好きな国民性とそれを増幅する仕掛けが完備されている昨今の日本においては、匿名で出るだけでも、十分にリスクフルである。その上実名だなどといったら、それこそ過去から何から全て湧き出て来かねない。であるから、実名で正論を吐くblogというのはよっぽどの状況である。

のこんな指摘も、寂しいがかなり正しいとは思う。ただ僕はこうした現状を「国民性」という大きな括りで議論して終わりとはしたくなかったのだ。あくまでもこれまでの日本、「古い日本」を体現する事象ととらえ、こうしたことに縛られぬ「新しい日本」が登場しつつあることに注目したいと思っているのである。

この10年で大きく変化した日本

僕は1994年に渡米して、それ以来、日米を年に5-7回ずつ往復するという生活を続けているが、外から見る日本は本当にどんどん変化している。特に1990年代後半から変化が加速しているように感じる。特に金融ビッグバンあたりが分水嶺だったのかなと直感するが、むろんさまざまな要因が重なり合っての結果である。
その変化によって生まれたのが、企業社会における「新しい日本」である。わかりやすく言えば、大学生や大学院生が就職先を考えるときの選択肢の中に「古い日本」と「新しい日本」が共存し、その「新しい日本」側が無視できないほどの大きさになってきたのではないかということ。そしてそのことが、特に1975年以降生まれの若い人たちに強い影響を与えているように思うのだ。
企業社会における「新しい日本」とは何か。それは、共同体意識に縛られた日本旧来型組織の外にあってなお「質の高い」仕事ができる場所のことだ。そういうところが、僕が大学を卒業した当時はとても少なかった。冒頭でご紹介した吉岡さんと僕は同世代だが、彼が就職した日本DECという会社などは当時の数少ない選択肢の一つであった。
たとえばIT系外資と言ったって昔はIBMとDECを除けば「質の高い」仕事ができそうな就職先はほとんどなかったけれど、今はたくさんある。金融の世界も大きく変わったから、外資投資銀行外資系ファンド等々、さまざまな選択肢がある。プロフェッショナル・ファームという概念も当時はなかったが今は当たり前だ。外資系コンサルは新卒など採用していなかったし、日本での認知は低かった。そしてベンチャーの概念も大きく変わった。ソフトバンクはもうエスタブリッシュメントの域に近づきつつあり、ヤフー・ジャパン、楽天などを頂点とするネット・ベンチャー世界が90年代末から大きく発展したのは周知の事実だ。Exit Strategyなんて言葉は98年頃日本では誰も知らなかったが、今は学生までがそんな言葉を使うようになった。
そしてさらに日本企業の中でも、ゴーンの日産自動車をはじめ、ダイエーやカネボーをはじめ、再建過程で資本構成が大きく変化することで経営や組織のあり方が様変わりしてしまう企業が日に日に増えていっている。40代でCEO/社長/COOになるなんていうキャリアパスは昔は全くなかったが、これからは当たり前になる。
20年前に「共同体意識に縛られた日本旧来型組織」以外に職を探そうとするとせいぜい10個くらいしか選択肢がなかったとすれば、今は100個、200個は選択肢があるという感覚の違いは大きい。
こうした「新しい日本」も、ふたをあけてみると「古い日本」と同じようなロジックで組織がまわっているケースが多いことは承知の上であえて言えば、やはり「新しい日本」は「古い日本」と違う可能性を秘めているのである。よく「日本は雇用流動性が低いから共同体に忠誠を尽くさなければならない」と言われたけれど、「新しい日本」で通用するスキルを持った人にとって「新しい日本」はかなり雇用流動性が高い世界である。雇用流動性が高いということは「内向きの論理」だけでは生きていけず、組織に属しながらも外を常に意識しなければならないということを意味している。再び吉岡さんの文章を引用するが、

日本の大企業の閉塞感を批判するのはたやすい。しかし友人が裸の王様でいることを見過ごすことを、たとえいらぬ世話だと思われていても看過することは難しい。大企業の犯罪が減らないのも、犯罪とまでいかなくても、半社会的な行為がなかなか減らないことも、自由な発言がしにくいことに要因があるとわたしは思っている。日本と言う地域がもっと風通しが良くなって人々が自由に発言できるような社会になれば、それはそこに暮らす一人一人の幸せに通じるだけではなく地球と言う社会に取っても意義があることだと強く思うのである。

彼が言う「もっと風通しが良くなって人々が自由に発言できるような社会」の風は、「新しい日本」から吹き始めることだろう。そして「古い日本」を少しずつ変えていくことを期待したいのだ。

Blog論2005年バージョン(3)

さて、FPN座談会メモ
http://www.future-planning.net/x/modules/news/article.php?storyid=537
に戻って、

UMEDA: インターネットの本質は「オーソリティって何だ?」の答えを作り直すことだと思う。例えば新聞を例にとれば、40ページの紙面を100円で買うという表層の姿は簡単にはなくならないと思うが、その紙面の中身(コンテンツ)の価値は大きく揺るがされている。新聞でモノを書くということは学歴や新聞社の社内競争を乗り越えてきたということによって権威付けされている。その権威を得ることはもちろんとても難しいことなのだが、実は「ネットの向こう側の膨大な知」との軋轢を起こしている。ネットの中というのは激しい本当の自由競争、かつ継続競争の世界であって、その中で最前線でい続けようとしても2年がいいところ。既存メディアでの書き手はシステムによって守られているが、インターネットは旬な人を見つけ出すシステムが絶えず機能している。私がインターネットを「消費者天国、供給者地獄」と表現する所以だ。
私のブログは”オープンソース”のような存在であり、それは趣味だから継続することができる。しかし本当にインターネット周りの書き手として食っていこうとしたらそれは並大抵のことではできない。

の部分。こういうことが起ころうとしているのだと僕は思う。

「ブログブームのおわり」とは思わない

トラックバックをいただいたR30「ブログブームのおわり」
http://shinta.tea-nifty.com/nikki/2005/04/boomofblog_63eb.html
で指摘される

価値ある情報ほど極度に囲い込んで出さない、日本の知識人の「知」のあり方

には深く同感するものの

どうやらこれ以上面白いコンテンツを持った知識人やタレントがブログ界に参入してこなくなりそうな気がするのと、切込隊長のようにネット住民からリアル有名人に「転出」してしまう人が出てきて、ネットの言論空間が寂れていきそうな気配がすることだ。

の部分について、僕はR30氏よりもかなり楽観的である。座談会のときは「ネットの向こう側の膨大な知」と表現したが、日本における教養ある中間層の厚みとその質の高さは、日本がアメリカと違って圧倒的に凄いところである。アメリカは二極化された上側が肉声で語りだすことでBlog言論空間が引っ張られるのに対して、日本は教養ある中間層の、個々には実に控えめな参入が、総体としてBlog言論空間を豊かに潤していくのだと思う。

高校時代の教室をイメージしよう

CNET Japan連載を終えた直後に書いた感想文
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20041230/p2
の冒頭で僕はこんなことを書いた。

CNET Japan連載をやってみて初めて実感したこと。それはネットの向こう側にいる人たち一人一人の教養の深さ、知識の広さ、発想の豊かさ、頭の良さ、文章能力の高さ、それぞれの専門について語るときの鋭さであった。
それであるときから、高校時代の教室をイメージするようになり、16-17歳なのにあんな凄い奴がいたな、こんな凄い奴もいたな、と思い出し、そういう奴らが、それから3年、10年、20年、30年という歳月を過ごし、そして今ネットの向こう側にいるんだな、人が一人生きているということはそれだけで凄いことなんだな、と思うようになった。
10年以上いろいろなところに文章を書いてきたけれど、紙媒体だと、どんなに部数が出ている新聞、雑誌でも、直接の反応というのはほとんどない。編集者が褒めてくれたり、アドバイスをくれたり、というだけである。それが無数の読者を代表する意見だというのが暗黙の約束事になっている。インターネットだって、ROMの割合が99%以上だが、反応者が1%以下でも読者の絶対数が増えると、かなりのボリュームになる。それを読み続けながら、ネットの向こう側に高校時代の教室をイメージすることができたとき、僕の中で何かが変わっていったように思う。

こういう価値観というか人生観を、この歳になって新たに持てたことこそが、Blogなんぞをやってみて得られた最大の収穫であった。

日本の企業人の肉声は聞こえてくるか

同じくCNET Japan連載終了直後の感想文
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20050105/p1
の中でこんなことを書いた。

僕は老若男女を問わず「良質の日本企業人」が好きだ。CNET Japan連載を始めてまもなく、アクセスログを見せてもらって、厖大な数の日本企業からのアクセスがあるのを知った。いま日本のIT企業人は、グローバル競争におけるサバイバルを、共同体を維持・発展しつつ行わなければならないという矛盾の中でもがいている。その矛盾が露呈しないのは「良質の日本企業人」による過労働が支えているからだ。むろんそういうことも含めた全体を批判するのはたやすい。しかしわかりやすい代案なんてないのだ。ことに共同体の成員という立場での選択肢はそう多くない。自然と過労働に向かっていく。その姿は、そういう道を選んでいたかもしれない自分の「あり得た現在」のようにも思える。
まぁとにかく、彼ら彼女らは忙しい。無駄な会議、無駄な書類、無駄な・・・、無駄の数々。貴重な時間は飛ぶように過ぎていく。そういう無駄を批判することもたやすいが、文句ばっかり言って何もしないということのできない性分の人たちは、無駄の山を踏み越え踏み越え、プライベートの時間に食い込んでも仕事を続ける。

沈黙しているこの層の人々によるBlog言論空間への参入があればなぁと思うが、ここはなかなか時間がかかるだろう。忙しさに加え、「辺境から戯れ言」
http://www.alles.or.jp/~spiegel/200504.html#d27

Page View の多いいわゆる「大手」のサイトがどのように作られているかはよく分からないが,例えば普通の企業に勤めている職業エンジニアは自分の仕事について「書けない」のが当たり前だと思うのだが。「書かない」のではなく「書けない」。何故かと言うと,そういう契約をしているからだ。
例えば私が CC/CCPL について書けるのは,それが秘守義務に含まれないから。暗号についてもたまに書くが,もちろん書けることより書けないことの方がずうっと多い。(ちなみに私は暗号技術について専門家ではない。もしそうなら「書けないことがある」と言うことすら許されない場合がある)

でこう指摘されるように、日本企業の「守秘義務」についての解釈はかなり厳しい。明文化されているいないにかかわらず、大抵のことについて、個々の「共同体の成員」が、共同体の外に向けては「書けない」と自己規定して暮らしていたほうが無難である。それは、ルールが極めて恣意的に運用される場合が多く、また後でルールが変わったりすることも多いからだ。このあたりは大げさに言えば、先日ご紹介した佐藤優国家の罠
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20050412/p1
が描く日本像の恐ろしさとオーバーラップする。

「古い日本」と「新しい日本」

僕はいま、日本企業社会に「古い日本」と「新しい日本」が共存し始めたのではないかという仮説を持ち始めている。「個人と組織の関係」のあり方についての認識を全く異にする「二つの世界」の共存である。そしてそのことと、日本のBlog言論空間がさらに潤っていくかどうかが密接に関係していると考える。
このことについてはまた(4)で稿を改めて続きを書くことにしたい。