「現代の若きエンジニアの物語」としても読める岡本かの子「老妓抄」

友人から勧められて、はじめて岡本かの子の作品を読んだ。
青空文庫でも読むことができる
一行一行に凝縮された文章の濃さが味わい深い。読みどころ、面白さは別のところにあるのだが、時代を超えて今日的だと感動したのは、財をなした老妓が、出入りの電気器具屋の青年に目をかけ生活の保証を与えて好きなことに没頭させたときに、その青年にどういう変化が起こったかのくだり。
青年は、ある日、電器修理の雇われ仕事について、

「そりゃそうさ、こんなつまらない仕事は。パッションが起らないからねえ」
「パッションって何だい」
「パッションかい。ははは、そうさなあ、君たちの社会の言葉でいうなら、うん、そうだ、いろ気が起らないということだ」

と言うのだ。それを聞いた老妓は

「ふむ。そうかい。じゃ、君、どういう仕事ならいろ気が起るんだい」
 青年は発明をして、専売特許を取って、金を儲けることだといった。
「なら、早くそれをやればいいじゃないか」

こう言い返し、今流に言えばエンジェルになって、青年を家に引き取りインキュベートしはじめるのだ。

 柚木は老妓の顔を見上げたが
「やればいいじゃないかって、そう事が簡単に……(柚木はここで舌打をした)だから君たちは遊び女といわれるんだ」
「いやそうでないね。こう云い出したからには、こっちに相談に乗ろうという腹があるからだよ。食べる方は引受けるから、君、思う存分にやってみちゃどうだね」
 こうして、柚木は蒔田の店から、小そのが持っている家作の一つに移った。老妓は柚木のいうままに家の一部を工房に仕替え、多少の研究の機械類も買ってやった。

そして半年が過ぎたあと、青年はこう述懐するようになる。
その時代における「新しさ」という意味において、「電気関係の発明」を「独自ソフトウェアやサービスの開発」に置き換え、「専売特許を取る」を「起業する」に置き換えたら、そのまま「現代の若きエンジニアの物語」として読めるではないか。

半年ほどの間、柚木の幸福感は続いた。しかし、それから先、彼は何となくぼんやりして来た。目的の発明が空想されているうちは、確に素晴らしく思ったが、実地に調べたり、研究する段になると、自分と同種の考案はすでにいくつも特許されていてたとえ自分の工夫の方がずっと進んでいるにしても、既許のものとの牴触(ていしょく)を避けるため、かなり模様を変えねばならなくなった。その上こういう発明器が果して社会に需要されるものやらどうかも疑われて来た。実際専門家から見ればいいものなのだが、一向社会に行われない結構な発明があるかと思えば、ちょっとした思付きのもので、非常に当ることもある。発明にはスペキュレーションを伴うということも、柚木は兼ね兼ね承知していることではあったが、その運びがこれほど思いどおり素直に行かないものだとは、実際にやり出してはじめて痛感するのだった。
 しかし、それよりも柚木にこの生活への熱意を失わしめた原因は、自分自身の気持ちに在った。前に人に使われて働いていた時分は、生活の心配を離れて、専心に工夫に没頭したら、さぞ快いだろうという、その憧憬から日々の雑役も忍べていたのだがその通りに朝夕を送れることになってみると、単調で苦渋なものだった。ときどきあまり静で、その上全く誰にも相談せず、自分一人だけの考を突き進めている状態は、何だか見当違いなことをしているため、とんでもない方向へ外(そ)れていて、社会から自分一人が取り残されたのではないかという脅えさえ屡々(しばしば)起った。
 金儲けということについても疑問が起った。この頃のように暮しに心配がなくなりほんの気晴らしに外へ出るにしても、映画を見て、酒場へ寄って、微酔を帯びて、円タクに乗って帰るぐらいのことで充分すむ。(中略)
 いくら探してみてもこれ以上の慾が自分に起りそうもない、妙に中和されてしまった自分を発見して柚木は心寒くなった。

この小説は昭和十三年に書かれたものである。

老妓抄 (新潮文庫)

老妓抄 (新潮文庫)

追記: 本欄読者の寿司屋の大将へ。この文庫本の中に「鮨」という名短編あり。心に残ったので、今度お店に行ったときに文庫本を持っていこうかと思っていたのですが、青空文庫で発見したのでここに貼っておきます。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000076/files/1016_19596.html

 店へ来る客は十人十いろだが、全体に就(つい)ては共通するものがあった。
 後からも前からもぎりぎりに生活の現実に詰め寄られている、その間をぽっと外ずして気分を転換したい。
 一つ一つ我ままがきいて、ちんまりした贅沢(ぜいたく)ができて、そして、ここへ来ている間は、くだらなくばかになれる。好みの程度に自分から裸になれたり、仮装したり出来る。たとえ、そこで、どんな安ちょくなことをしても云っても、誰も軽蔑するものがない。お互いに現実から隠れんぼうをしているような者同志の一種の親しさ、そして、かばい合うような懇(ねんごろ)な眼ざしで鮨をつまむ手つきや茶を呑(の)む様子を視合(みあ)ったりする。かとおもうとまたそれは人間というより木石の如く、はたの神経とはまったく無交渉な様子で黙々といくつかの鮨をつまんで、さっさと帰って行く客もある。
 鮨というものの生む甲斐々々(かいがい)しいまめやかな雰囲気、そこへ人がいくら耽(ふけ)り込んでも、擾(みだ)れるようなことはない。万事が手軽くこだわりなく行き過ぎて仕舞う。
 福ずしへ来る客の常連は、元狩猟銃器店の主人、デパート外客廻り係長、歯科医師、畳屋の伜(せがれ)、電話のブローカー、石膏(せっこう)模型の技術家、児童用品の売込人、兎肉販売の勧誘員、証券商会をやったことのあった隠居――このほかにこの町の近くの何処(どこ)かに棲(す)んでいるに違いない劇場関係の芸人で、劇場がひまな時は、何か内職をするらしく、脂づいたような絹ものをぞろりと着て、青白い手で鮨を器用につまんで喰べて行く男もある。
 常連で、この界隈(かいわい)に住んでいる暇のある連中は散髪のついでに寄って行くし、遠くからこの附近へ用足しのあるものは、その用の前後に寄る。季節によって違うが、日が長くなると午後の四時頃から灯がつく頃が一ばん落合って立て込んだ。
 めいめい、好み好みの場所に席を取って、鮨種子(すしだね)で融通して呉れるさしみや、酢(す)のもので酒を飲むものもあるし、すぐ鮨に取りかかるものもある。

この福ずしに本当に行ってみたくなる。読者を鷲掴みにして作品世界に引き込む短編冒頭の名文だ。