毎日新聞夕刊「ダブルクリック」欄・第八回「はじめの一歩」

毎日新聞火曜日夕刊コラム欄の第八回です。
最近アメリカで出版されたアンディ・グロープの伝記について書きました。

僕がシリコンバレーでいちばん尊敬する経営者は、インテルという半導体会社を、ゼロから世界一にまで育てたアンディ・グローブという人である。
ブダペストユダヤ人家庭に生まれたグローブは、二十歳のときにハンガリー動乱に見舞われる。単身オーストリアに脱出し、難民としてアメリカにやってきた。ニューヨークで大学を卒業したあと、大学院に進むために一九六〇年に西海岸へ移った。そしてその八年後に創業期のインテルに参画。シリコンバレーシリコンバレーと呼ばれるようになる前の話である。
グローブの近くで仕事をした経験を持つ人たちは一様に、彼のすさまじい集中力とエネルギーが周囲にみなぎらせた緊張感について語る。現役を引退した昨年まで強いオーラを発し続けていた偉大な経営者である。
彼の伝記『アンディ・グロープ』が先ごろ米国で出版された。忙しいときほど、仕事に直接関係のない本を読みたくなって仕方ないものだが、届いたばかりの五百ページを超える分厚い本をぱらぱらとめくりながら、彼がインテルに参画する頃のこんなくだりと出合い驚いた。
「私は死ぬほど怖かった。自分が何をやっているかをよく知る安定した職場を辞めて、未経験領域の全く新しいベンチャーに身を投じて、研究開発を担当するのだ。身がすくんだ。悪夢を本当に何度も見た。」
三十二歳のときの自分を振り返っての彼の述懐である。祖国を脱出し米国に亡命するという激動を乗り切ったアンディ・グローブほどの人でも、ベンチャーに関わる最初はこんなふうだったのだ。誰にでも「はじめの一歩」があるのだなあ。グローブを初めて等身大の人間と感ずることができ、僕は強く勇気付けられたのだった。
(毎日新聞2006年11月28日夕刊)

Andy Grove: The Life and Times of an American

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