「ウェブ人間論」立ち読み部分

平野啓一郎さんが定義したウェブ上での「五種類の言説」をめぐる議論の部分が、新潮社「ウェブ人間論」公式サイトにアップされました。
http://www.shinchosha.co.jp/wadainohon/610193/reading.html
ここにもその一部を転載しておきましょう。
全文は新潮社サイトでどうぞ。

平野 僕の場合、デビューが一九九八年で、その頃にネットでかなり嫌な思いをしたことがあるんですね。現実の世界では、ちょっと経験したことがないような罵詈雑言にもさらされたし、事実無根のウソやデマも書かれた。今はもう、ネットのそういう一面も知ってますけど、最初のショックは大きかった。それは僕に限らず、あの当時、社会に名前の出ていた人の多くが経験したんじゃないですかね。僕は、今そのことについてどうこう言うつもりはないんですが、実際のところ、僕自身もネットの恩恵をすごく被っていて、もはやネットに接続できない生活は考えられないところまで来ているにもかかわらず、今でも何処か、梅田さんのようなさわやかな感情をネットの世界に対して持ちきれないのは、一つにはあの時のトラウマがあるんだと思います(笑)。これは僕個人の問題ではなくて、今日までのネットについての日本の言論全体に言えるのかもしれませんが。それを語りうる立場にあった人たちは、多かれ少なかれ、そうした経験をしていた可能性がありますから。
 それはまあ、極端にネガティブな経験ですけど、それも含めて、僕はネットでブログをやっている人の意識って、だいたい五種類に分けられるんじゃないかと思ってるんです。
 一つは、梅田さんみたいに、リアル社会との間に断絶がなくて、ブログも実名で書き、他のブロガーとのやりとりにも、リアル社会と同じような一定の礼儀が保たれていて、その中で有益な情報交換が行われているというもの。
 二つ目は、リアル社会の生活の中では十分に発揮できない自分の多様な一面が、ネット社会で表現されている場合。趣味の世界だとか、まあ、分かり合える人たち同士で割と気安い交流が行われているもの。
 この二つは、コミュニケーションが前提となっているから、言葉遣いも、割と丁寧ですね。
 三つ目は、一種の日記ですね。日々の記録をつけていくという感じで、実際はあまり人に公開するという意識も強くないのかもしれない。
 四つ目は、学校や社会といったリアル社会の規則に抑圧されていて、語られることのない内心の声、本音といったものを吐露する場所としてネットの世界を捉えている人たち。ネットでこそ自分は本音を語れる、つまり、ネットの中の自分こそが「本当の自分」だという感覚で、独白的なブログですね。
 で、五つ目は、一種の妄想とか空想のはけ口として、半ば自覚的なんだと思いますが、ネットの中だけの人格を新たに作ってしまっている人たち。これは、ある種のネット的な言葉遣いに従う中で、気がつかないうちに、普段の自分とは懸け離れてしまっているという場合もあると思いますが。
 この五種類が、だいたいネット世界の言説の中にあると僕は考えるんです。一番目と二番目とについては、ネットに対して最も保守的な考えの人でも、多分、否定的には見ないでしょう。三番目は、やっぱり、自分を確認したいというのと、自分のはかなく過ぎ去っていく日々を留めおきたいという気持ちとがあるんだと思います。よく問題になるのは、四番目と五番目ですね。その時に、リアル社会のフラストレーションが、「自分の本音は本当はこうなんだ」という四番目の方に向かうのか、五番目の空想的な人格の方に向かうのかは分かれるところだと思いますが。
梅田 三番目や「2ちゃんねる」的な世界を含めた四番目や五番目の人たちを、平野さんはすごく重視している、関心が向いているわけですね。
平野 ええ、まあ、重視というか、そうですね、関心が向きますね。人間の内面に直結する分、ある意味で、ネットの一番デリケートな部分というか、難しい部分だという気がしています。文学ではドストエフスキーの『地下室の手記』以来のテーマだと思いますけど。・・・・・・・・