スペシャリストとオタクはどこが違うか

千住博さんの本は、読んでいて元気が出てくる。以前にも本欄で紹介したことがあるが、次の三冊をまだ手にしたことのない人は是非、読むといいと思う。
きっと絵が好きになる。そして元気が出る。
千住博の美術の授業 絵を描く悦び (光文社新書) 美は時を超える 千住博の美術の授業 (光文社新書) 原寸美術館 日本編 画家の息吹を伝える
さて、今日は千住博さんの新刊「ルノワールは無邪気に微笑む」(朝日新書)を読んでいて気になった一節をご紹介しよう。この本は、朝日新聞の読者からの質問に一問一答形式で千住さんが回答した本である。質問は、

千住さん、スペシャリストとオタクはどこが違うと思いますか。(略) どこが違うんでしょうか、尊敬されるスペシャリストとバカにされるオタク。だれも千住さんのことを「日本画のオタク」とは呼びませんよね。(略)

じつに難しい問いである。
平野啓一郎さんとの対談(「ウェブ人間論」)でも、ウェブ社会が進化していくと、人々は趣味・関心・嗜好を同じくする人たちとどんどんつながることができ、個の専門性や固有性が他者に理解され承認されることできっとより深まっていくだろう、という話になった。むろんそれを「総オタク化」と揶揄することもできるが、そういう新しい可能性をもっとポジティブにとらえるべきだろうと僕は思っている。
そんな問題意識があったので、千住さんはこの難問にどう答えるのかとページをめくるのが楽しみだった。以下が千住さんの回答のエッセンス部分である。

はっきり言って、「日本画のオタク」と言われるひとたちは相当数います。それも団体展と呼ばれるグループや小さな画廊を中心とした世界で生きているなかの過半数はこの「日本画オタク」の皆さんです。そのひとたちによって「日本画」のイメージは作られています。
そもそもオタクとは何か、という問題ですがこれは仲間うちだけの閉じたネットワークのコミュニケーションで、わかるやつだけをお互いオタクと呼び合って情報交換したり、自らのコレクションを見せ合ったりしているひとたちのことです。その内容はほとんどパラノイア的な深度に達している場合も多く、これはこれで内部にいると楽しいものかもしれません。
しかしここで一つ問題となることがあります。それは日本画はもとより芸術といわれるものはすべてに対して開かれているもの、という大前提があったはずです。"同好の士だけ"を最初から相手にするのではなく、徹頭徹尾わからない人々に向けて開かれているコミュニケーションが芸術です。(略)
真にすぐれたスペシャリストの仕事ならば必ず大衆に理解されます。それには少しばかりの歳月がかかることがありますが、芸術の才能とは必ず発見されるものです。(略)
天才ピアニストのゼルキンルービンシュタインも、そうやって劣悪な環境のなかから奇跡的にひっぱり出されたのです。ひょっとしたら自分はオタク的ではないのか、そう思う芸術家の皆さん、どうか勇気を持ってその閉ざされたサークルから広い世界に飛び出してください。
芸術家に必要なのは、自信と勇気、そしてコミュニケーションです。

本欄は、芸術家の卵ではなく技術系の読者が多いのであえて言うが、「ハッカーと画家」でも書かれているように、プログラマーとアーティストの共通点は多い。千住さんのこの回答の「芸術」「芸術家」というところを「プログラミング」「プログラマー」と置き換えて、自分の問題として読んでみるといいと思う。きっと何か得るところがあるはずである。閉鎖に対する、開放。閉ざされたサークルに対する、徹頭徹尾わからない人々に向けて開かれているコミュニケーション。そこがオタクとスペシャリストを分ける分水嶺だと千住さんは言うのである。