次の10年はどういう時代か(4)

Goodpicの「「オープンで無いソフトを書いたり使ったりするエンジニアはリスク」という考え」
http://www.goodpic.com/mt/archives2/2005/05/post_82.html
で、4月からSix Apartに移り、どうやら米国出張中らしい金子順さんはこんなことを書いている。日米比較論でMixiの話なんかも出たディナーの席での感想だ。

USのエンジニアな人が「クローズドな環境で、情報を公開して何か意味があるの?」という点で、いまいち合点がいかない風でした。

この「合点がいかない風」という感覚そのものに、僕の「おっちょこちょい」の血は騒ぐのである。そのあとに書かれている

「オープンで無いプロプライエタリなソフトを使ったり、書いたりするエンジニアは、特に小さなスタートアップ・ベンチャーではリスク要因になるんだよ。あるエンジニアが急に会社をやめたりしたときに、オープンなソフト、コンポーネント・モジュールで開発がされていれば、新しく担当になった人が、最小限の時間で状況を把握して、開発を継続できるから。」

というシニアな人の発言も確かに面白いのだが、こういうふうに論理に落として人を説得させようという言葉だと、どうしても「力の芽」を限定的にとらえることしかできなくなってしまう。
もう一つ。「国内有名6大学の教材を無償で公開--受験に合格しなくても学べる?」というCNET Japanの記事。
http://japan.cnet.com/news/media/story/0,2000047715,20083516,00.htm
「舟木 将彦のウェブログ
http://d.hatena.ne.jp/mfunaki/20050514
でこの件については詳述されているのでそちらもご参照いただきたいが、MITオープンコースウェアとの提携による「教材の無償公開」の試みだ。
ただ、せっかくの新しい試みに水を差すのも何だが、本家であるMITオープンコースウェア自身の「勢い」は、構想をぶち上げた時点に比べて明らかに落ちているように思う。大学に限らず、既存組織内で閉じていた情報をオープンにするという試みは、よほどの狂気がないと長続きしない。「LOOP」という雑誌で、MITオープンコースウェアの推進責任者にインタビューした記事「全授業教材を無料公開するMIT流オンライン教育の根拠」
http://japan.cnet.com/column/loop/story/0,2000050146,20064214-1,00.htm
もあわせてご参照いただきたいが、話を聞いたアン・マルグリーズ(MIT オープンコースウェア エグゼクティブディレクター)からは、理念に准ずるような狂気は全く感じず、決められたことを粛々とやっている大学官僚という印象を受けた。アンに話を聞いた半年後に、CNET連載2004年6月18日「2007年の完成を目指して進むMITのオープンコースウェア
http://blog.japan.cnet.com/umeda/archives/001322.html
の中で、

このLOOP誌連載でAnneと話をする前に、僕は、オープンコースウェアの今後の課題として、(1)オンラインコミュニティの発展、(2)ビデオ教材の充実、の2つが極めて重要という問題意識を持っており、その点をきちんと議論したいと考えていた。その部分のAnneとのやり取りを再掲し、半年後の現在、どんなふうにその開発が進展しているのかを、今日は見ていきたいと思う。

と書いたが、結局はこの2つの課題は完全に停滞状態にある。「形だけ情報をオープンにすればいいな」という程度の方向が目指されており、「何としてもその情報を世界中の必要とする人たちと共有するのだ、そのためには徹底的に改善し続けていく、結果として大学という組織の姿が大きく変わっていってしまったって構わない」という「本物の狂気」がないから停滞するのである。先ほど引いたCNET Japanの記事「国内有名6大学の教材を無償で公開--受験に合格しなくても学べる?」
http://japan.cnet.com/news/media/story/0,2000047715,20083516,00.htm?ref=rss
のこの部分

公開から2年以上経つMITのOCWのサイトには、1100の講義情報があり1日に2万ものユーザーが訪れるという。

が正しいとすれば、「1日2万人」の訪問者じゃしょうがないだろう。普及という意味では失敗だし、「形だけやっている」という自己満足に過ぎない。せっかくの試みなのに本当に残念である。逆に「MITにしてこの程度か」と感慨も深い。
オープンソース・プロジェクトにも成功するものと失敗するものがあるわけだが、そのあたりの話はあまり話題にならない。新しい何かを作るプロジェクトだという意味では、オープンソースベンチャーも同じで、本質的に失敗するプロジェクトの方が多い。オープンソースの場合はベンチャー創造と違って、失敗しても関係者で大損する人とかがおらず、静かに消えていくだけなので話題にならないのだろうが、情報をオープンにしたからといって成功する保証は全くない。
前稿(3)で、

「来るものは拒まず」的なオープンネスが「不特定多数無限大の人々」に対して開かれている状態が生む価値のほうに、より本質的な面白さ・可能性を感じている

と書いたが、こうした状態から「価値」を本当に生む主体となるためには、某か「狂気の継続」のようなことが必要なのだろうと今は考えている。
前々稿(2)で、

僕がシリコンバレーや米国IT産業に知的に惹かれるのは、「次の10年」を変える力の芽を体現する会社が無から生まれてとてつもなく大きな存在になることである。インテルマイクロソフト、アップル、シスコ、アマゾン、ヤフー、グーグル。皆、最初は無から始まる。でも「次の10年」を変える大きな力の芽を内包していたから、色々な幸運が重なってこれほど大きな存在となるまで成長した。

と書いたが、こうした企業群を特徴づける共通項は「狂気の継続」なのである。ただこの「情報のオープンネス」ということにまつわる狂気は、これまでのこうした企業群が示した「世界を変えてやる、それとともに会社を大きくしてやる」というような比較的わかりやすい狂気とは違ったタイプの狂気を必要とするのではないか、という気がするのだ。