辻邦生「外国文学の愉しみ」

外国文学の愉しみ (レグルス文庫)

没頭して読みふけった本は「それを読んでいたときの天候、早く吹いていた風だとか、照っていた陽ざしだとかを含んでいる」とプルーストふうに言うとすれば、私のなかの「失われた時を求めて」は、パリの国立図書館の、前世紀末の沈鬱な様式でつくられた高い天井から流れる、蒼白い、時間を忘れたような光の中に包まれている。
当時、私は、文学的な衝迫をもちながら、どうしても作品を書くことができず、それこそプルーストの主人公と同じく、作品を書こうとすると、ペンが手から落ちるような気持ちを味わっていた。