サバイバルって当たり前のことなんじゃないの

僕の「座右の銘」は、アンディ・グローブの「Only the Paranoid Survive」(極度な心配性だけが生き残る)という言葉。サバイバルっていう言葉は、ちょっとざわざわするから、わざと使っている。
それで、なんかサバイバルという言葉に極端に「嫌だ」って感じで反応する人がいるけれど(それが言葉の遊びがしたい人だけならいいんだけどね・・・そういう気持ちがなくても何とか生きていけると甘ったれている人がいるとすればちょっと心配なので・・・・)、「緊張感を持って生きる」っていうごくごく当たり前のことなんじゃないの。家族がいれば、家族と一緒に幸せに生きていくための最低限の原資を稼ぎ続けるぞっていうのはサバイバルだし、どんどん変化していく世の中でプロとして簡単にコモディティ化しないぞと決心してスキルを磨くのもサバイバルだし、勤めている会社が突然つぶれたときにちゃんと他社から誘われたり独立できるよう準備しておくなんてのもサバイバルだろうし・・・。

生きるために「読み」 「書くこと」で生きる

フォーサイト誌5月号「シリコンバレーからの手紙」(129)に書いた「生きるために「読み」 「書くこと」で生きる」
http://www.shinchosha.co.jp/foresight/web_kikaku/u129.html
が、ネット上にアップされました。

・・・・・・・
『遠い太鼓』は、四十歳を迎えた村上春樹が、自らの三十代後半を振り返って書いた自伝的エッセイでもあり、独立の意志を固める時期にちょうど三十代後半にさしかかろうとしていた私には、年齢的にも共感し、影響されるところが大きかった。
「四十歳というのはひとつの大きな転換点であって、それは何かを取り、何かをあとに置いていくことなのだ、と。そして、その精神的な組み換えが終わってしまったあとでは、好むと好まざるとにかかわらず、もうあともどりはできない。(中略)それは前にしか進まない歯車なのだ。僕は漠然とそう感じていた。(中略)だからこそそうなるまえに、――僕の中で精神的な組み換えが行われてしまう前に――、何かひとつ仕事をして残しておきたかった」(同16頁)
「何かひとつ仕事を」というほど明確なものは見えていなかったが、四十歳になって「精神的な組み換えが行われてしまう」前に、いったい自分に何ができるのかを確かめたい、一人になったときに自分の身に何が起こるのかを見てみたいと、私は強く望んだのだった。
・・・・・・・

全文は、新潮社「フォーサイト」誌サイトでお読みください。