Blog論2005年バージョン(3)

さて、FPN座談会メモ
http://www.future-planning.net/x/modules/news/article.php?storyid=537
に戻って、

UMEDA: インターネットの本質は「オーソリティって何だ?」の答えを作り直すことだと思う。例えば新聞を例にとれば、40ページの紙面を100円で買うという表層の姿は簡単にはなくならないと思うが、その紙面の中身(コンテンツ)の価値は大きく揺るがされている。新聞でモノを書くということは学歴や新聞社の社内競争を乗り越えてきたということによって権威付けされている。その権威を得ることはもちろんとても難しいことなのだが、実は「ネットの向こう側の膨大な知」との軋轢を起こしている。ネットの中というのは激しい本当の自由競争、かつ継続競争の世界であって、その中で最前線でい続けようとしても2年がいいところ。既存メディアでの書き手はシステムによって守られているが、インターネットは旬な人を見つけ出すシステムが絶えず機能している。私がインターネットを「消費者天国、供給者地獄」と表現する所以だ。
私のブログは”オープンソース”のような存在であり、それは趣味だから継続することができる。しかし本当にインターネット周りの書き手として食っていこうとしたらそれは並大抵のことではできない。

の部分。こういうことが起ころうとしているのだと僕は思う。

「ブログブームのおわり」とは思わない

トラックバックをいただいたR30「ブログブームのおわり」
http://shinta.tea-nifty.com/nikki/2005/04/boomofblog_63eb.html
で指摘される

価値ある情報ほど極度に囲い込んで出さない、日本の知識人の「知」のあり方

には深く同感するものの

どうやらこれ以上面白いコンテンツを持った知識人やタレントがブログ界に参入してこなくなりそうな気がするのと、切込隊長のようにネット住民からリアル有名人に「転出」してしまう人が出てきて、ネットの言論空間が寂れていきそうな気配がすることだ。

の部分について、僕はR30氏よりもかなり楽観的である。座談会のときは「ネットの向こう側の膨大な知」と表現したが、日本における教養ある中間層の厚みとその質の高さは、日本がアメリカと違って圧倒的に凄いところである。アメリカは二極化された上側が肉声で語りだすことでBlog言論空間が引っ張られるのに対して、日本は教養ある中間層の、個々には実に控えめな参入が、総体としてBlog言論空間を豊かに潤していくのだと思う。

高校時代の教室をイメージしよう

CNET Japan連載を終えた直後に書いた感想文
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20041230/p2
の冒頭で僕はこんなことを書いた。

CNET Japan連載をやってみて初めて実感したこと。それはネットの向こう側にいる人たち一人一人の教養の深さ、知識の広さ、発想の豊かさ、頭の良さ、文章能力の高さ、それぞれの専門について語るときの鋭さであった。
それであるときから、高校時代の教室をイメージするようになり、16-17歳なのにあんな凄い奴がいたな、こんな凄い奴もいたな、と思い出し、そういう奴らが、それから3年、10年、20年、30年という歳月を過ごし、そして今ネットの向こう側にいるんだな、人が一人生きているということはそれだけで凄いことなんだな、と思うようになった。
10年以上いろいろなところに文章を書いてきたけれど、紙媒体だと、どんなに部数が出ている新聞、雑誌でも、直接の反応というのはほとんどない。編集者が褒めてくれたり、アドバイスをくれたり、というだけである。それが無数の読者を代表する意見だというのが暗黙の約束事になっている。インターネットだって、ROMの割合が99%以上だが、反応者が1%以下でも読者の絶対数が増えると、かなりのボリュームになる。それを読み続けながら、ネットの向こう側に高校時代の教室をイメージすることができたとき、僕の中で何かが変わっていったように思う。

こういう価値観というか人生観を、この歳になって新たに持てたことこそが、Blogなんぞをやってみて得られた最大の収穫であった。

日本の企業人の肉声は聞こえてくるか

同じくCNET Japan連載終了直後の感想文
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20050105/p1
の中でこんなことを書いた。

僕は老若男女を問わず「良質の日本企業人」が好きだ。CNET Japan連載を始めてまもなく、アクセスログを見せてもらって、厖大な数の日本企業からのアクセスがあるのを知った。いま日本のIT企業人は、グローバル競争におけるサバイバルを、共同体を維持・発展しつつ行わなければならないという矛盾の中でもがいている。その矛盾が露呈しないのは「良質の日本企業人」による過労働が支えているからだ。むろんそういうことも含めた全体を批判するのはたやすい。しかしわかりやすい代案なんてないのだ。ことに共同体の成員という立場での選択肢はそう多くない。自然と過労働に向かっていく。その姿は、そういう道を選んでいたかもしれない自分の「あり得た現在」のようにも思える。
まぁとにかく、彼ら彼女らは忙しい。無駄な会議、無駄な書類、無駄な・・・、無駄の数々。貴重な時間は飛ぶように過ぎていく。そういう無駄を批判することもたやすいが、文句ばっかり言って何もしないということのできない性分の人たちは、無駄の山を踏み越え踏み越え、プライベートの時間に食い込んでも仕事を続ける。

沈黙しているこの層の人々によるBlog言論空間への参入があればなぁと思うが、ここはなかなか時間がかかるだろう。忙しさに加え、「辺境から戯れ言」
http://www.alles.or.jp/~spiegel/200504.html#d27

Page View の多いいわゆる「大手」のサイトがどのように作られているかはよく分からないが,例えば普通の企業に勤めている職業エンジニアは自分の仕事について「書けない」のが当たり前だと思うのだが。「書かない」のではなく「書けない」。何故かと言うと,そういう契約をしているからだ。
例えば私が CC/CCPL について書けるのは,それが秘守義務に含まれないから。暗号についてもたまに書くが,もちろん書けることより書けないことの方がずうっと多い。(ちなみに私は暗号技術について専門家ではない。もしそうなら「書けないことがある」と言うことすら許されない場合がある)

でこう指摘されるように、日本企業の「守秘義務」についての解釈はかなり厳しい。明文化されているいないにかかわらず、大抵のことについて、個々の「共同体の成員」が、共同体の外に向けては「書けない」と自己規定して暮らしていたほうが無難である。それは、ルールが極めて恣意的に運用される場合が多く、また後でルールが変わったりすることも多いからだ。このあたりは大げさに言えば、先日ご紹介した佐藤優国家の罠
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20050412/p1
が描く日本像の恐ろしさとオーバーラップする。

「古い日本」と「新しい日本」

僕はいま、日本企業社会に「古い日本」と「新しい日本」が共存し始めたのではないかという仮説を持ち始めている。「個人と組織の関係」のあり方についての認識を全く異にする「二つの世界」の共存である。そしてそのことと、日本のBlog言論空間がさらに潤っていくかどうかが密接に関係していると考える。
このことについてはまた(4)で稿を改めて続きを書くことにしたい。