厳しい時代だからこその「文化の力」

ちょうど半年前に、こんな文章を書いた(「新しい挑戦と変わらぬ日常」) 。

仕事と休暇を兼ねてやってきたパリでこの原稿を書いている。
1994年10月22日、私は東京での生活を引き払い、シリコンバレーにやってきたので、先週水曜日で丸14年が過ぎたことになる。振り返れば「前半の7年間」と「後半の7年間」は、まったく異なる経験だった。インターネット勃興(ぼっこう)期の興隆の中に身を置いて高揚感の中で激しく仕事をした「前半の7年間」の最後に、2001年9月11日の同時多発テロが起きた。「後半の7年間」は、エンロンの破綻(はたん)、アフガニスタンイラクで始まった戦争、そしてこのたびの世界金融危機と、渡米時に思い描いていた明るい未来のイメージとは違う思いがけないことが、次から次へと起こり続けた。・・・・・・
ビジネスの最前線で思いがけないことばかりに直面し、何とか知恵を絞ってサバイバルを試み続けた「後半の7年間」で、私は、2つの大切なことを学んだ。・・・・・・

僕はふだん原稿を旅先で書かない。旅行や出張の前に原稿を書いて担当者に渡してしまうからだ。ただこのときばかりは、竜王戦第一局の観戦のためにパリに行く直前に世界金融危機が始まり、何が起こるかわからない毎日で、一週間も早く予定稿を書くことができなかったので、棋士たちと過ごした僕にとっての「夢のような一週間」が終わった「祭りのあと」の寂しさの中、パリのホテルでこの原稿を書いた。
シリコンバレーから将棋を観る」に所収した竜王戦観戦記の中でも

個人の手に負えないほど大きなことが周囲で起きたときに、私たち一人ひとりにできることはそれほど多くないということである。もちろんサバイバルのためにベストを尽くすのは大切だ。でも、そんなことばかりを365日24時間考え続けながら生きることは、私たちには到底できないのである。テロが起きても、戦争が始まっても、世界経済が音を立てて崩れようとも、私たちは、毎日の生活の潤いや楽しみを求めて、音楽を聴いたり、小説を読んだり、野球を観たりしながら、精神のバランスをとって、したたかに生きていかなければならないのだ。文化は、その時代が厳しくなればなるほど、人々の日常に潤いをもたらす貴重な役割を果たすものなのである。

と書いた。半年が過ぎたが、世界経済の状況は相変わらず厳しい。加えてこの豚インフルである。当然のことながら、人々の間のやり取りは、色々な意味で殺伐としてきやすい。同じ時間だけ仕事をしていても、景気のいいときの昂揚感の中で仕事をするのと、厳しい環境下での仕事では、心と体に及ぼすダメージはぜんぜん違う。僕の場合であれば、シリコンバレーに来てからの「前半の7年間」と「後半の7年間」は、呆然とするほどの環境変化だった。
その「後半の7年間」に、意識して努めたのは「文化の力」によって、日常に潤いをもたらすことだった。たくさんの小説を読み、メジャーリーグに熱中し、そして将棋を観た。そしてそんなことの延長線上で、さまざまな出会いや勝負の帰趨に誘われて、とうとう今度の本が出ることになった。これをきっかけに、僕はこれから、きっと将棋ともっと深く関わりながら生きるのだろうと思う。人生というのは、本当にわからない。逆にだからこそ私たちは、未来がよくわからないからこそ、ごちゃごちゃといろいろやりながら、生きていくことができるのであろう。
1997年5月1日に会社を始めたので、あと3日で創業12年になる。昨日、膨大な書類の整理をあれこれとしてみて驚いたが、あとから思うとミクロにはうまくいかなかったことばかりを、特に「後半の7年間」はやっていたなあ(いまもやっているなあ)、と自分でもあきれてしまった。でも「やっている」そのときどきは、結果がわからないから「やれた」。そういう試行錯誤のなかで、いくつかうまくいったことがあった、という総括が、「後半の7年間」の正直な実感だ。そして、たくさんの試行錯誤ができたのは、潤滑油の役割を果たしてくれた「文化の力」ゆえだった。

ところで、はてなの伊藤直也が「シリコンバレーから将棋を観る」の長い書評を書いてくれた。彼がこの本の書評を書くなんてまったく思いもよらなかったので、驚いた。まったく予想していなかったプレゼントをいきなりもらったような感じで嬉しかった。この文章からもわかるように、id:naoyaは、見た目以上にストイックな人なんだよね。
シリコンバレーから将棋を観る」のウェブ上での書評・感想を読んで思うのは、将棋をめぐる「志向性の共同体」の存在をたしかに実感するということだ。ウェブ世界はそれを可視化し、確固とした手ごたえのあるものとして実感させてくれる。Onの世界では喧々諤々の議論があってそれがお互いを高めていくことにもつながる可能性があるが、Offの世界までそんなことはしなくてもいい(むろん、したっていいけど)。「対象を愛する」という共通項を持った人たちが、対象とともにお互いを大切に思いながら、その「志向性の共同体」を通して、それぞれの日常に潤いを加えていければ、それで十分だからだ。
ウェブ時代をゆく」の中で、「志向性の共同体」の重要性について書いた。「ウェブ時代をゆく」は、OnとOffでいえば、Onについての本だったからそれほど強調しなかったけれど、私たち一人ひとりが、Off的な意味での「志向性の共同体」を持つことは、厳しい時代の今だからこそ、とても大切だと思うのだ。