「将棋を観る」ということ

名人戦第二局は大熱戦の末、後手郷田九段の勝利に終わって1勝1敗。さあこれからますます面白くなる。夏に向けて名人戦はぐっと盛り上がっていくことだろう。
名人戦竜王戦と同じ二日制だが、持ち時間がそれぞれ一時間多く(名人戦は9時間、竜王戦は8時間)、しかも二日目に30分の夕食休憩があるので、竜王戦の終局が午後7時から7時半頃なのに対して、名人戦の終局は午後9時半から10時の間くらいになる。本局は両者一分将棋となって、午後10時8分の終局だった。
シリコンバレーは夏時間だと日本との時差は16時間なので、名人戦ならば、午前4時頃に起きれば、それがちょうど日本時間の午後8時なので、終局に向けての佳境の場面をちょうどライブで観戦することができて楽しい。
今日の名人戦第二局は、立会人が加藤一二三九段で、副立会に高橋九段と深浦王位、解説役の鈴木八段と、錚々たる棋士たちが控え室で検討していて、その検討経過が中継されていたが、最後の最後まで優劣不明、しかも控え室の検討手順とは違う手が、より深く読んでいる両対局者によって指される、というスリリングな展開の名局だった。昔の観戦記を読むと、10時間以上の持ち時間の二日制の対局で、二日目の午前三時頃に両者一分将棋でフラフラになっている様子が出てくる。そこまでだと激しすぎるかもしれないが、やはり持ち時間が長い二日制の将棋の、時間の流れに身を委ねながら観るのが面白い。
新著「シリコンバレーから将棋を観る」の終章で羽生名人と、「将棋を観る」ことを主テーマに約50ページに及ぶ長時間対談をしたわけだが、この対談を読めばより面白く「将棋を観る」ことができるようになればいいなと、そんな観点で羽生さんの新しい言葉を引き出したいと思っていた。「将棋を観る」というテーマは、実はあるようでなく、これまでにあまりきちんと語られてきていないのだ。
案の定、対談のはじめのほうで、羽生さんがこんなことを言ったので、じつは僕はびっくり仰天してしまった。

将棋の局面というのは、つねに揺れ動き続けているようなものなんですよ。或るプロ棋士に訊いてこっちが良いと言っても、違うプロ棋士は自信がない、と言う。タイトル戦に限らず、大部分の対局は、その微妙なギリギリのところで、ずっとずっと揺れ動き続けているものです。私は、その途中の感じを観るには、アマとプロとの差は、じつはあんまりないんじゃないか、という気がしているんです。稀にすぐ大差がついて形勢がハッキリする場合は別として、そうして競っている状態のときは、みんな見解が分かれるものです。針がどっちに振れるかわからない、切羽詰まった場面を見るには、将棋の実力は関係ない。最低限ルールさえ知っていれば、そのときの雰囲気とか「場」を、かなり捉えることができるのではないかと。もちろん、その一手に潜む裏側の意味、といったことは、プロ棋士のほうが観えていますよ。ただ、プロは将棋を観るときに、そこだけを観てしまうきらいもある。プロの見方と一般的な人の見方は、補完する感じで表現できたら、一番いいのではないかと思います。
(「シリコンバレーから将棋を観る」第七章より)

僕は「将棋の途中を「観る」ことについて「アマとプロとの差はあんまりない」なんて、羽生さんにおっしゃっていただけると、僕を含め、数多くの将棋を「観る」ファンにとって、本当に嬉しいことだと思いますよ!」と反応したが、この言葉をめぐっての羽生さんの説明を改めて読むと、羽生さんが将棋ファンへのリップサービスではなく、心からそう思っていることがよくわかった。
プロ棋士は将棋を観るときに、職業柄どうしても「次の一手」や「形勢判断」というところだけを観てしまうが、一般の「将棋を観る」ファンはもっと違うものを観ることもできるはずだ、と羽生さんは言うのである。
今日の名人戦第二局でも、錚々たる検討陣をもってしても、この将棋の中盤以降、実際にどちらが優勢で、郷田がなぜ勝ったのか、羽生がなぜ敗れたのかを、ライブでは特定できていなかった。そして感想戦で何が語られたかについてのポイントが、おそらく明日までに中継棋譜に追記されるだろうが、それでも一局の将棋を総括することはできない。最高峰の将棋はそれだけ深いのである。羽生さんは、一局の将棋の結論について、こんなふうに語っていた。

終わった直後は、まだわかってないことが多くて、具体的な感想を求められても正しいことが言える自信はないですよね。「こういう手があったかもしれません」とは言えても、「こうしていれば勝てた」というのは、やっぱり……。感想戦というのは、対局の時点をさかのぼって考えているわけじゃないので。(中略)
時間経って訊かれれば断言できることもありますが、終わった直後は、本人もわかっていない。本当に難しいものについては、調べていたら一時間二時間は平気で経っちゃうので、時間が要る。さらに時間が経ってから、たとえば実戦集など出すときに、いろいろ調べたらこうだった、とようやく書けることもあります。
(「シリコンバレーから将棋を観る」第七章より)

そう、だから私たちはライブという時間の流れの中で一局の将棋を観て、そして半日くらいたって中継棋譜の追記を読みながら棋譜を並べ、さらに「週刊将棋」の報告記事や「将棋世界」や新聞の観戦記を後日読み、それらを総合し、また未来のいつかにこの将棋を振り返ったりすることで、一局の将棋をずっとずっと味わい続けることができるのだ。
そして、一局の将棋の結論が棋士たちの頭脳の中で消化されると、また、新しい将棋が指される。そういう営みの連続の総体が、マクロに見れば、将棋の進化の物語という形になってあらわれる。「将棋を観る」楽しみは本当に奥が深く、素晴らしいものなのである。
二つだけプレビューとして、羽生さんの言葉を対談の中から紹介したが、一人でも多くの人が「将棋を観る」楽しみを再発見する一冊に本書がなってほしいと願っている。