「自分の力と時代の力」講演録(JTPAシリコンバレー・カンファレンス2009年3月21日)

(1) 去年と今年

おはようございます。今年は去年までのJTPAツアーとは形式をすっかり変えて、1日のカンファレンス以外は、皆さんが自由にシリコンバレーを訪ね歩くという企画になりました。去年までのあつらえ型のツアーよりももっと充実した行程を、それぞれ自分たちでデザインして、「こんな行程で回るんだよ」と皆さんがブログに書かれているのを拝見しました。
じつは昨日丸一日、僕のオフィスをオープンにしまして、1時間半ずつのセッションを4つやりましたから、今日、この会場にいらっしゃる3分の1くらい、40人くらいの人たちとは、すでに直接お会いしました。そのときも、「これから○○へ行くんですよ」とか「誰々に会ってきましたよ」という話が出ました。去年は、150人くらいの応募者から書類審査で20人にしぼって、2泊3日、全部こちらで用意したツアーをやりましたが、それに比べて、大勢の方にお会いできるし、それぞれが自分のプランで動くこと自体、非常にシリコンバレーらしいやり方で、今年の企画はたいへん良かったんじゃないかと、スタッフの皆さんのご苦労に敬意を表したいと思います。
JTPAを始めたのは2002年で、最初は僕も運営に深く携わっていたんですが、マネジメントもどんどん若くして、前の人たちが始めたことを思い切ってどんどん変えていっています。去年から代表も替わって若返りました。それは非常に良いことで、一般に日本人の組織はなかなか若返らないのですが、JTPAはどんどん若返って、次々と新しい企画をやっていく実験を続けていきたいと思っています。
特に昨日は、たいへん有意義でした。こうして一方通行で講演という形でお話しするよりも、オフィスに来ていただいて、皆さんの関心事項に合わせて、カスタマイズした形でお話しすることは、僕にとっても学ぶことが多くあります。これから、ときどきそういう日を持とうかなと思っています。たとえば、今日ここにいらっしゃる方の3分の1か4分の1くらいが、留学中の方々ですよね。たとえばそうした方々向けに、「夏休み中の、8月何日は、僕のオフィスはオープンにするから、事前にコンタクトをとって訪ねてください」とか。次に講演する大澤(弘治)さんもアメリカにいる時期だったら、彼のオフィスもその日オープンになっているとか。そういうような感じで、何人かが「オープンオフィス・デイ」を同じ時期に企画すれば、こういうカンファレンスが無くても、日本からでもシリコンバレーに旅行に来てみようと思いやすいとか、留学している人がもうちょっとこちらに来やすいかもしれませんね。そんなことを何ヶ月に一回か、半年に一回とか、これからやってみようかなと思っています。
さて、JTPAは「シリコンバレーで働く」ということが一つのテーマなんだけれども、昨日40人くらいの人と会ってみて、今回の参加者の人たちは、「すぐにシリコンバレーで働きたい」あるいは「こういう会社のこういうところで働きたい」という具体的テーマがあってここに来ている人は少なくて、未来の可能性とか、漠然とこの場所がどうなっているか知りたい、それで刺激を受けて明日からの自分の毎日の行動に結びつけたい、そういうような気持ちをもっている人が多いと知りました。そこで、今日お話しする内容を、当初準備していたものから若干カスタマイズして、これから三、四十分、お話ししようと思います。
皆さんご承知のように、去年の9月、10月あたりから、世界経済はそれまでと全く違う様相を呈してきました。去年と今年と同じ話をするということはバカみたい、というくらい大きな変化があったわけです。そこで今日は、この経済危機が皆さんとどういう関係があるのかという話をしようと思っています。
去年のカンファレンスでも1時間くらいの講演をしましたが、それは僕のブログに全文テープをおこして文章を直したものが載っています(「世界観、ビジョン、仕事、挑戦――個として強く生きるには」講演録(JTPAシリコンバレー・ツアー2008年3月6日))。読んだ方もいらっしゃるかもしれませんが、去年お話しした内容は、基本的に今年も有効です。特に、今日お話しすることを前提に読むと、文脈が整理されて理解しやすくなると思います。もしご興味があれば、今日のカンファレンスが終わったら、去年のスピーチも読んで、今日の話とセットで受け止めてほしいと思います。
もちろん経済危機は皆さんと大きな関係があるのだけれど、特にすごく大きな関係がある人と、それほど関係がない人と、あるいはそれが逆にチャンスであるという人というように、人によって、この世界の状況のとらえ方は変わってくると思います。

(2) イメージを持つことの大切さ

昨日皆さんとお会いして、20代前半の学生さんと、20代半ばから30代前半くらいの社会人が多いので、僕がそのくらいの時期から、シリコンバレーとどう接点ができて、どういうプロセスを経てここに来たか、という話をまずしようと思います。
最初にシリコンバレーに来たのは、1989年1月です。今からちょうど20年前、28歳のときでした。28歳より若い方はどれくらいいますか?皆さんの多くは、28歳以下ということですね。皆さんはぼくより先にシリコンバレーの地を踏んでいるわけですから、僕よりうんと大きなことをしてください。
外資コンサルティング会社に勤め始めたのが1988年で、その1年後の1989年1月に、駆け出しのコンサルタントとして、「日本企業の海外開発拠点の調査」というとても地味なプロジェクトで、日本企業の米国開発拠点を訪ね歩いたのが最初でした。初めての海外出張でした。当時は、車の運転もできず、英語もろくにできなかった。一週間くらいの行程で、インタビューをする相手は日本人ばかりで、一人だけアメリカ人がいたかな。移動もタクシーを使って、今回の皆さんのように、誰かと誘い合って車に乗り合わせて朝8時にここに、なんていうことは、当時の僕にはできませんでした。
それから、アップル・ジャパンへのコンサルティングをやるようになって、頻繁にクパチーノにあるアップルの本社と日本と、行き来をするようになりました。でも、当時ちょうど20代の末で、日本で結婚をする時期だったこともあって、日本以外の場所で生活をするとか、「シリコンバレーで働く」ことは想像していませんでした。だから、昨日お話ししたみなさんと、まったく同じというか、等身大の状況でした。将来シリコンバレーで働けるようになるとも思っていませんでした。留学の経験もないし、言葉の問題があり、エンジニアもやめていましたので、どうやったらここで働けるのかさっぱりわからないし、ここで働くということが、まったく想像の外にありました。
ただ、強烈なイメージだけは頭に焼き付きました。皆さんは、昨日か一昨日くらいからシリコンバレーに入ったと思いますが、幸いなことに、昨日も一昨日もすごく良い天気だったでしょう?僕は毎年、JTPAツアーの時期に、「天気が良くなるといいな」と思います。というのは、シリコンバレーは年間を通してだいたい天気がいい場所なんだけれど、雨が降っている日もなくはない。天気が悪いと、シリコンバレーの印象もずいぶん違うからです。1989年から1990年くらいにかけて僕がここに何度か来たときに受けた強烈な印象とは、「青空の下、緑の芝生の横に丸いテーブルがあって、そこで仕事をしている人たちの姿」でした。
イメージというのはとても大事で、具体的にここで働くとか勉強するという道筋が見えなくても、何か、「ここは非常に自分と相性が良い」、「シリコンバレーはこういうところが素晴らしい」というような、何かしらのイメージを焼き付けて帰れるといいなと思っています。というのは、イメージが頭に焼き付くと、それが毎日の行動の動機付けになってくるというところがあるからです。
僕の場合は「あそこで仕事がしたいな。あの青い空の下の気持ちのいい気候のなかで何か仕事がしたい」と強く思いました。別にコンサルタントでなくてもいい、どこかの会社に勤めるのでもいい、何でもいいのだけれど、この広い空間の中で、自分が仕事をしているイメージが映像として、そのとき頭に焼き付いた。具体的なものは何もないのだけれど、今思うと、そのイメージを持ったことがとても大事なことでした。そうなると、英語も一生懸命勉強しようかという気持ちになる。
僕は24歳か25歳くらいまで、研究者になろう、技術者になろうという気持ちでいましたから、それまで英語を一生懸命勉強したことはありませんでした。外資系のコンサルティング会社というのも、今ほど入るのが難しくなくて、経営コンサルタントは特に当時はいい加減な仕事の代名詞みたいなものでしたから、英語は入社してから頑張るという約束で入る、という感じでした。入社して最初のうちは英語もさぼっていたんだけれど、シリコンバレーへ仕事で来ることができて、そうなると、こっちでは英語が出来なければ仕事ができないわけですから、英語を一生懸命勉強して、TOEICを受けて、社内のexchangeプログラムに応募できるだけの点数をクリアして、1991年11月にサンフランシスコ事務所に一年間赴任することになりました。
何でも必ずステップ・バイ・ステップです。そう簡単に、いきなり一足飛びに、自分の持つイメージのところに行けるということはありません。ゴールになるイメージがどこかにあって、一歩一歩、一つ一つ自分がその時点でできることをやっていく、ということ以外にはないのです。
さて、そのように英語を勉強して、1991年11月にサンフランシスコ事務所に来て、当時のアメリカのIT産業について一生懸命勉強して、1992年12月に帰国しました。「1年間アメリカにいて、そのままアメリカに残ろうとは思わなかったんですか?」という質問をよく受けるのですが、僕はそんなことは露ほども思いませんでした。というのは、一年間アメリカで働いてみて、自分がアメリカでそのままやっていけるという感覚が全く持てなかった。
アメリカに残ろうなんていう自信をもてるだけの「自分の力」は全然足りなかった。それが、1992年の末ですから、17年前くらいのことです。それで日本に帰って、まる2年間、アメリカで勉強したことを論文にまとめて発表したりし、コンサルタントとしても自分の顧客のベースを持つようになり、ものすごく一生懸命働いて、そこそこ仕事がまわり始めた。その時にまた、シリコンバレーの映像が頭に浮かんで、「日本でここまで何とかなってきたら、シリコンバレーに行っても何かできるかもしれない」と思い、その時の「自分の力」とシリコンバレーのイメージが結びついて、何かごちゃごちゃとやりながら、こっちにこようと決めました。
何年間か働いてきて、会社の中では自分のプレゼンスが出来てきて、自分が働くことによって会社がかなりもうかるという状況になってくると、社内でのバーゲニング・パワー(交渉力)が生まれます。「シリコンバレーのオフィスに転籍させてくれないか」というネゴシエーションが会社とできるくらいには、「自分の力」が高まってきていましたが、自分がその時点で会社を辞めて単身アメリカに来るという、そこまでの自信は、その時はありませんでした。

(3) 「時代の力」――世界経済の力、日本の力、自分が選んだ産業や得意領域の持つ力

そういうことがあれこれとあって、14年半前、1994年10月にシリコンバレーに移住しました。ですから、最初にこの地を踏んでから、移住をしようとここに来るまでに6年かかっています。6年間、英語を勉強するところから順番に、ステップ・バイ・ステップでやってきた。振り返って今思うのは、その6年間を会社を辞めたりせず、働きながら実力をつける機会を得られたのは非常に幸運で、なぜそれができたかというと、「自分の力」というよりも「時代の力」に負うところが大きかったということなのです。
それが今日のテーマでもあるのですが、「時代の力」のおかげで、押されるようにして、ここに来ることができた。皆さんの時代と僕の時代で、それぞれ、違う「時代の力」というのが渦巻いています。「こういう時代の力が渦巻いているから、だからこうしよう」と、僕自身が15年前、20年前に明確にしっかり意識していたわけではないのですが、今から思うと、「自分の力だけでこっちに来たのではないな」とつくづく思います。今日、これから僕のあとに大澤さんが話をして、金島(秀人)先生が話をして、そのあとに、こちらで活躍をしている人、勉強している人、苦しんでいる人、それぞれが自分の経験を話すと思います。皆さんの側からそれぞれの話を聞くときに、「自分の力」と「時代の力」ということを意識して聞いてもらったらいいのではないかと思います。もちろん自信満々で「俺は自分の力だけでこっちに来たんだ」と言う人もいるでしょう。事実そうだと言える人もいます。でも一般に、何かの仕事でうまくいくというのは、必ずしも「自分の力」だけではないのですよ。必ず「時代の力」というのがそこに重なっている。
「時代の力」とは、大きく分けて三つあると思います。一つは、世界経済の状況です。やはり、「時代の力」の一番大きなものは、世界経済の好況・不況の問題です。今から世界経済は、最低でも3、4年は悪いでしょう。もっと長引くかもしれません。「100年に一度の危機」と言う人もいれば、「50年に一度」と言う人もいますけれど、全世界どこにもいいところがない状況にあります。シリコンバレーも「ここだけ元気だ」ということはあり得ません。
もちろんミクロに見れば元気な企業はあります。個人に目を向ければ、たとえばここに来るくらいモチベーションが高くて、良い教育を受けて、知的レベルの高い人は、ミクロに見れば、なんとかやっていけるでしょう。ただ、時代の大きな波に押されて、たいした実力もないのに、元気の良さだけで、こっちで仕事を得ることができました、というようなことは、ここしばらくは起きません。94、95年の頃は、元気の良さ、勢い、巡り合わせの良さによって就職ができる、ということが結構ありました。「世界経済の好況・不況」というのは、「時代の力」の要素としてやはりとても大きい。この第一の要素は、皆さんにとって当面はアゲインストです。「時代の力」の第一要素が弱まっている。そのことは、冷静に認識しておかなければいけないと思います。
「時代の力」の二つ目は、皆さんは日本人ですから、「日本の力」なんですよ。「日本の力」も「時代の力」の重要な要素で、ここが、皆さんと僕らの世代を比較すると、僕らの世代の方が大変ありがたかった。 僕が大学に入学したのは1979年なのですが、1979年は、『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(エズラ・ヴォーゲル著)という本が出た年です。それに続く1980年代というのは、日本がもっとも成功していて、全世界が日本の成功を学ぼうと思った時期であり、日本企業や日本人も元気で、日本全体がまだ若く、日本経済も活力があった。そういう時代に僕は20代を過ごしています。とくに80年代後半は、ジャパン・マネーが世界を席巻して、そういうときに大企業に勤めていたりすると、「自分の力」ではないんだけれど、勤めている会社の勢いで世界で仕事をする機会が得られ、シリコンバレーに駐在したりすることができて、日本という国や日本企業の力をバックに、大きな仕事をして人脈を作ったりすることができました。
それでは皆さんの時代はどうか。ミクロに見れば、素晴らしい日本企業もあるけれど、時代の全体の流れからすると、残念ながら日本は今、衰退の方向に向かっている。そういう意味で、マクロに見たときの「時代の力」の二番目の、「日本の力」に頼ることができません。たとえば、僕らの世代、1980年代前半に大学を卒業した人たちは、ほとんどの人が「大学院を出て日本の大企業に勤めれば、かなりおもしろおかしく好きなことをやって、自分の生涯を終えることができるんじゃないか」という、非常に甘ったれた考え方を持っていました。今、ここに来ていらっしゃる皆さんは、そんなことは全く期待していないでしょう。期待していないほうが正しいのです。というのは、そんなふうな甘い考えで大学や大学院を卒業して、日本の大企業に入っても、時代はめぐって25年くらい経った今、たとえば僕の友人たちは、瀕死の日本企業の部長クラスだったりして、「お前はいいな」と僕に言ったりします。昔は、「日本企業にいるお前のほうがいいよ」とこっちが思っていたわけですが。いずれにせよ「日本の力」には長期にわたって頼ることができない時代を生きるんだと腹をくくって、仕事人生をスタートしてください。
「時代の力」の三つ目は、自分が得意領域としている技術や自分が入ろうとしている産業の成熟度合い、という問題です。僕自身は35年前、中学生のときにプログラミングを始めました。大型コンピューターのプログラミングを始めて、途中からエンジニアでなくなりましたけれど、それ以来、ずっとITに関わってきました。自分が選んだ専門であるITが、産業としてこの35年間に全世界でワーッと大きくなりました。35年前と言えば、半導体など全く存在しなかったところから、半導体産業が生まれようとしていた時期です。
シリコンバレーの歴史を見ても、1970年頃というのは、ここはアメリカのただの田舎町ですから。そこに、IT産業というものの、ものすごく大きなウェーブが来る。最初に半導体があり、次にPCがあり、ソフトウエアがあり、そのあとにオープンシステムが来て、最後にインターネットが来た。そのくらい大きな波が次から次へとやって来た。
皆さんが今感じているような、ネットの新しいサービスやITの新しいプロダクトが出たときに「なんだ、これ、たいしたことないね。今までのこれで十分だよ」と、シニカルに見つめる感覚が当たり前の時代とは、全然違いました。何かやりたいことのイメージはある、でも、技術は全然追いついていない。そういう時代がずっと続いていたからです。次から次へ、やりたいことが実現できさえすれば、おおむね世の中のニーズはあった。そういう時代がずっと続いてきたということは、産業の定義で言うと、その産業が揺籃期から成長期にあったということになります。
ITが成熟して、面白くなくなったかと言えば、まったくそんなことはない(特にIT利用技術はこれから大いに発展するし、情報でできた「もうひとつの地球」はさらに充実し、ネット利用者は現在の15億人から30億人へ、40億人へと全地球規模で進化していくでしょう)のですが、やはり、10年前、20年前に比べれば成熟した(特に供給企業の視点からは)。このことについては、いろいろ議論があるでしょう。今日の後半で話をしてくれるバリバリのソフトウェア・エンジニアの人たちの観点、ミクロに今起こっている技術が面白い面白いと言っている人たちの視点と、僕の持つ投資家や経営者サイドの視点・マクロな俯瞰したものの見方は、きっと違うと思います。僕の視点に共感する人もいて良いし、「いやそうじゃないんだ、ITというのはこれから面白くなるんだ」と心から思える人は、そんなエンジニアの人たちの視点に共感するでしょう。でも、時代を俯瞰した見方からすれば、少なくとも、「時代の力」の三つ目の「技術や産業の力」も、ITに関して言えば、昔に比べると今は、ずっと弱まっていると思う。皆さんが「時代の力」に押してもらえる分が、明らかに、僕らの時代よりも小さいからです。

(4)「自分の力」とその増幅装置

というわけで総じて今、皆さんを取り巻く「時代の力」は弱まっているわけです。ところが、「自分の力」を増幅してくれる道具を見れば、僕らが20年前に持っていた道具と、まったく違う道具を皆さんは持っている。
今回のこのカンファレンスでも、「3月21日にカンファレンスをやるからここに集まってください」と言っただけで、マイクロバスも出さないけれど、みんなきちんとここに集まってこられる。昨日、1時間半のセッションを4つやったけれども、そこでも、ほとんど見ず知らずの人たちが、ネット上でコミュニケーションをとりながら、どこかで待ち合わせをして誰かの車に乗って僕のオフィスにオンタイムにやってくる。こんなことは20年前にはできませんでした。世界中の会いたいと思う人に直接連絡したり、同じ志を持つ人たちを発見して自由にコミュニケーションを取るといったことは、僕らの時代にはまったくできなかったし、アメリカで留学して生活するときにも、その道具立てが全然違います。
たとえば、ここに集まって何かを学びとろうとやってきた人たち、つまり非常に能動的で積極的で勉強しようと思っていて、一生懸命生きようと思っている人たちにとっては、その人生を助けてくれる道具がものすごく充実していて「自分の力」の増幅装置になる。かりに「時代の力」が衰微していても、ミクロに見れば、いろんなオポチュニティが目の前にあるわけだから、そういうところを「自分の力」でこじあけていける。そのときに昔ならいくら「自分の力」と言っても、道具がなかったら、どうやってもこじ開けられないことがありました。でも皆さんは今、そういう道具をもっている。
余談になるけれど、僕らの時代は、そういう道具がなかった代わりに、みんな一緒くたに「時代の力」が押し出してくれるという面があった。だから当時の格差は比較的小さく、今はその「時代の力」が弱くなって、増幅された「自分の力」が拠り所になるので、結果として格差が大きくなってしまうのは否めません。
そのような、「自分の力」を増幅する道具、皆さんに与えられた、僕の若い時にはなかった道具を生かして、徹底的に「自分の力」を伸ばしていって欲しい、ということが、今日のキーメッセージです。『ウェブ時代をゆく』という本を、2007年の11月に出しました。ドッグイヤーで世の中が流れているから、もう何年も経っているような気がしますが、まだ2年も経っていません。去年の講演と『ウェブ時代をゆく』は、今日お話ししているような文脈に置きなおして、「自分の力」をどうやって増幅するのか、という視点で読んでもらうといいと思います。
そして若い人にとっては、やはり、上の世代の人が全く分からない最先端の知を手にするということが、長くサバイバルするためのカギだと思います。今、シリコンバレーでも元気のいい人と、不安の中で生きている人がいるけれど、元気のいい人はどういう人かというと、まだ海のものとも山のものともわからない、たとえばITとバイオロジーの世界の接点とか、ITと脳科学の接点とか、すぐにはベンチャーキャピタルもファンディングできないほど先端の分野を究めようとしている人たちです。そういう領域の研究をやっている、そういう領域を一生懸命勉強している人は、世界経済がどういう状態かなんて関係なく、自分の世界が面白いからそこでがんがんやっている。
一方、身に付けた技術、自分が勉強してきた技術が成熟して来ちゃったなという漠然とした不安の感覚のなかで生きてきている人は元気がなくなっていく。これだけ速く技術が進化すると、コモディティ化するのも速い。そういう中で不安が募ってくる。
今日のコンファレンスで最初に話をする3人、僕と大澤さんと金島先生は、後半にパネリストとして出てくる皆さんと同世代の人たちに比べれば、一世代上の人間ですが、我々3人に共通することは何かというと、かつて、あまり他の人がやっていなかったことをやっていた、ということなんですよ。かつて誰もやっていないことをやっていたから、20年、30年もった、ということなのです。自分の選んだ領域が幸運にも揺籃期にあって、それが、時代とともに大きく発展していく中で、自分もそこで大きくなることができた。「時代の力」をレバレッジできたということです。皆さんも「上の世代の人が全く分からない最先端の知」ということを是非、意識してみてください。
去年の講演で、「梅田さんが、今僕たちの年齢だったら、ITをやっていましたか。シリコンバレーに来ていましたか」という質問を受けて、これは非常にいい質問だなと思いました。僕はあえて「ノー」だと答えました。自分を振り返ると、必ずしも「ITがどうしても好きだ」というわけでなかった。シリコンバレーには「ITがどうしても好きだ」と思っている人も多いのだけれど、僕はITについて、どちらかというと「誰もやっていないから面白い」と思ったのでした。技術や産業の新しさに惹かれました。上の世代の人にはよくわからない世界だったから、この世界は面白いと思った。ITがこれだけ成熟していたらITを選んでいなかったはずですから、結果としてシリコンバレーにも来ていなかったかもしれません。ただアメリカの大学院への留学は絶対にしたいので、いずれ巡り巡ってシリコンバレーに来ているかもしれません。
どっちが良い、悪いということではありません。
シリコンバレーの魅力には、テクノロジーそのものへの関心ということと、新しさへの関心ということの、両面があるんです。
これからいくらITが成熟しても、ハイテク成熟巨大産業、インテルとかアップルとか、そういう会社に面白い仕事はたくさんあり続けます。成熟産業のなかにも最先端のテクノロジーがある。半導体製造装置でもあり、半導体でもあり、PCでもあり、インターネットでもある。
一方で、誰もやっていない新しいこと、たとえば、スタンフォード大学の研究室からのスピンオフが活発だとか、誰もやっていない面白い新しいことにお金がついてくるという側面もシリコンバレーにはあります。
僕の場合は、「誰もやっていない新しいこと」というのに惹きつけられたために、当時の最先端であったITをやってきたけれど、ふりかえって考えるに、20年前、30年前に、自動車が大好きで、大学の工学部でエンジンの開発をやっている研究室にいて、メカニカル・エンジニアの道を究めて、ホンダに入った、トヨタに入ったという人と、皆さんの中のITが大好きだという人は、僕には重なって見える。産業の成熟とかと関係なく、対象の魅力に惹きつけられているからです。しかし、その進化のスピードが自動車産業なんかに比べてうんと速く、技術のコモディティ化が速いことに、皆さん一人ひとりがどう戦っていくか、というのは大きなチャレンジなのだろうと思います。
現在、脳科学とITの接点をやっているとか、ゲノム解析とITの接点だとか、何をやっているのか上の世代の人たちには全くよくわからない、まだ産業もありません、という分野をやっている人たちの性格と、「誰もやってないから面白い」と思って当時のITを選んだ僕自身の性格が、むしろシンクロするのかなと思います。皆さんが、自分の性格・性質と、なぜここに惹かれているのかということを考える上で、参考にしてもらえればと思います。

(5) いまこそ自分に投資を

最後になりますが、もし皆さんが20代前半だったら、留学することをお勧めします。これからの時代は、とくに学問の世界では、英語で何かを書かなければ存在しないのと同じだし、インターネット空間も、英語圏は圧倒的な進化を遂げているけれど、日本語圏はそうでもないとか、いろんなことがあります。
ビジネスでも、グローバルな展開を考えなくては面白いことはそうはない。日本で起業するのでも、日本を向いてビジネスをしているだけでは大きく伸びようがない。スモールビジネスくらいしかできない可能性が強いです。かなり大きなことをしたいと思う人は、必ずグローバルにやらなければいけない時代だと思います。僕らの世代は、まだ日本ローカルなところに根ざして生きのびられた最後の世代だけれども、皆さんはそうではない。だから、少しでも留学ってどうなんだろうと興味を持っていたり、ちょっと無理すれば留学できるくらいの経済的な状況、あるいは自由な環境にいる人は、かなり真剣に留学ということを考えると良いと思います。「シリコンバレーで働く」ということも、留学の延長線上で考えるのが王道でしょう。そして大学や大学院でこそ、「上の世代の人が全く分からない最先端の知」を身につけることができるわけです。
いまは「時代の力」が衰微していますから、こういう時ほど、自分に投資して「自分の力」を高める時なのです。自分に投資をするという時に、インターネットで、全世界の講義が見られます、ユーチューブで見られます、MITのオープンコースウェアがあります、誰とでもコネクションできますと言っても、人間は弱いものだから流されてしまいがちです。だから、留学して、強制されて勉強する環境に身を置く、それも素晴らしい学習環境に身を置くのがやはり良い。
30歳すぎて、40歳すぎて、専門領域である程度自分のプレゼンスもできて、プライドも生まれ、仕事もあって、勉強しないで仕事すればその分一年にこのくらい稼げる、みたいな状況になったら、なかなかもう一回勉強しに戻るということができません。20代の、まだ失うものが全くないときに、アメリカで勉強するのはとてもいいことです。
アメリカは良いところも悪いところもたくさんあります。滞在中の一週間でも、そういうところをきっと皆さんは目にするでしょう。でも、アメリカで間違いなく良いのは、一流大学と研究機関なんですよ。アメリカの競争力のすべての源泉はそこにあると言ってもいい。だから、2年でもいい、できれば3年、5年留学することを、皆さんの非常に重要な選択肢として考えてほしい、この時代だからこそ、ということを最後に申し上げて、おしまいにしようと思います。ご静聴ありがとうございました。