深浦さんのこと

佐世保出身の深浦康市王位は昨年、11年ぶりのビッグタイトル挑戦(羽生王位への挑戦)に際し、「九州へタイトルを持ち帰ります」と公言し、見事に有言実行した。
九州の西日本新聞は、そんな深浦の王位としての初防衛戦をテーマに、「神が与えた対局 第49期王位戦七番勝負」という四回連載を組んだ。

 深浦さんが子どものころ通った将棋道場の主(あるじ)、川原潤一さん(59)=長崎県佐世保市=の、記憶に鮮やかな思い出が、感想戦の姿に重なってくる。
 一九八二年三月、第七回小学生将棋名人戦出場のため、小学五年生の深浦少年は川原さんと上京した。寝台列車の中で「『夢のごたー』とニコニコしとった」という深浦少年。二回戦で敗れたが翌日は「武者修行だァ」と都内の将棋クラブを回り、大人たちを負かして意気揚々、佐世保に帰った。優勝したのは六年生の羽生少年だった。(2008/07/31 西日本新聞)

羽生善治佐藤康光森内俊之のライバル関係については、すでにすべて語り尽くされている感があるが、日本中の将棋の天才少年が各地で見出され、彼らが生涯かけて「天才の中の天才は誰なのか」を決めていく棋士の世界では、どんな棋士たちの間にも、子供の頃からのドラマがあるのだ。

「負けが見えても、何とかひっくり返そうと考えとる。粘り強い子やった」。長崎県佐世保市の将棋道場主・川原潤一さん(59)は、小学四年で入門してきた深浦少年の資質をこう振り返る。当時、道場で深浦さんのライバルだった野田真治さん(38)=福岡県大野城市=は言う。「内に秘めてるけど大変な負けず嫌い」
 小学六年の春、深浦少年は九州・山口のアマ棋士が競う宗像王位戦(本紙主催)に長崎県代表として出場する。この年の秋、ポツリと口にした言葉が「奨励会に入ってプロ棋士になりたい」。自分で意思表示するのが苦手な子だったから、周囲は驚いた。(中略)
 一九八四年春、小学校を卒業し、親類を頼って上京、奨励会に飛び込んだ深浦少年にとってもプロの壁は厚かった。最初の六級から五級になるのに一年。次々と抜かれた。自室に戻り、盤を抱えて悔し泣きした。
 中学を卒業すると一人でアパートを借りた。故郷からの仕送りが遅れ、三万円の家賃が払えなかったことがある。「大家さんに泣いて謝りました。情けなかった」(深浦さん) (2008/08/01 西日本新聞)

いま王位戦を戦う深浦と羽生は一歳違いだが、今日までの軌跡は、おそろしく違う。
もう十年以上前に、青野九段が、二十代の深浦についてこんな文章を書いている(青野照市「勝負の視点」p153-160)。

深浦が上京したのは十二歳、つまり小学校を卒業したばかりの時であった。十二歳と言えばまだ子供である。
「よく親が出してくれました」
と本人は言うが、私だって十五歳で単身上京した時に、地元の人達はよく出したと言ったそうだから、この三年の差ははるかに大きい。(中略)
深浦が本当に強くなったのは、十五歳で親戚の家を出て一人で暮らし、対局の記録係等をたくさんやるようになってからである。対局に関しては無給の奨励会員にとって、親から送られる仕送りのほかは記録料がほとんど唯一の収入源で、また勉強の場でもあった。
その意味では、深浦は年は若いが昔風の修行を積んだ棋士と言ってよいだろう。(中略)
昨年の暮れ、将棋の普及で長崎の佐世保に行く機会があり、昼間は指導対局で夜は割烹『ふかうら』での打ち上げとなった。無論、深浦五段の実家である。
地元の魚と酒を飲み、夜遅く解散になった。私は御礼を言ってタクシーに乗り込み、しばらくして後ろを振り返ると、見えなくなるまで頭を下げているお父さんの姿があった。

僕が深浦さんと知り合ったのは、今年の四月のことである。将棋の世界のシーズンオフは、順位戦が終わった四月である。深浦王位、行方八段、野月七段、遠山四段の四人が、サンフランシスコとバンクーバーとシアトルに二週間の旅をするという。旧知の遠山四段から「サンフランシスコで食事でも」と誘われ、せっかくの機会なので、一日休みを取って、サンフランシスコに行ったのだった。どうせ夕食だけではすまず、そのあともかなり飲むだろうからと、その日のうちに帰宅するのは諦めて、皆と同じホテルに予約を入れておいた。
昼過ぎにホテルで集合し、軽く挨拶を交わしてすぐ、サンフランシスコ市内の僕が好きなスポットをいくつか車で案内してから、ゴールデンゲート・ブリッジを渡り、サウサリートという海辺の小さな街に行った。
いろいろなところをあわただしく回るより、海辺でのんびり話をするほうがいい、と皆が言うので、少し散歩しては話すみたいにして、午後のひとときをサウサリートで過ごした。
ぶらぶらと散歩しながら、成り行きでメジャーリーグの話題になったとき、
メジャーリーグの球場で観戦していて感動するのは、観客がとにかく野球に詳しくて、みんな野球に没頭して見ていることなんだよね。たとえば、マイナーリーグからメジャーにその日初めて上がったという選手が、バッターボックスに入ったとするでしょう。電光掲示板にそんな案内なんか何も出ないのに、観客が総立ちでスタンディング・オベイションが始まるんだよ」
と僕が言ったら、行方さんがすぐに反応した。
「あったかいですよねえ。いいなあ。嬉しいだろうなあ。体がふるえますよね」
行方さんは半分泣きそうな顔になっていた。
そのとき、深浦さんがポツリとこう言ったのだ。
「日本でも、地方は、そういうところがあります」
深浦さんの郷里・佐世保への思い、九州への思いは本当に深いのだ、そして深浦さんを応援する地元の人たちは、きっとものすごく熱いのだろう。そう僕は思った。
6月9日、サンフランシスコのメンバー(プラスα)が、東京で再び集まった。まだそのときは、深浦さんが王位戦で戦う相手は決まっていなかった。王位戦挑戦者決定戦は、翌週の19日に、羽生二冠(当時)と橋本七段の間で行われることになっていたのだ。しかし深浦さんはその日「もう僕の中では、相手は決まっています」ときっぱりと言った。深浦さんの言葉からは、羽生さんと戦いたい、という静かな闘志が強く伝わってきた。特に、今年の王位戦第四局は佐世保での対局。彼は、郷里・佐世保で、王位として、羽生さんと戦いたかったのである。
そして果して深浦さんは昨日(8月7日)、郷里・佐世保で、王位として、羽生さんに勝ったのだった。「会心の笑顔」とは、こういう顔のことを言うのである。
深浦王位防衛まで「あと一番」となった王位戦第五局は、お盆休みで少し間があいて、8月26-27日に徳島で行われるが、深浦、羽生の二人は、なんとその前に、竜王戦挑戦者を決める決勝トーナメントを戦う(8月13日)。

2008年の深浦康市王位には、羽生四冠の「七冠ロード」を止めるストッパーの役割が与えられているような気がします。王位戦で羽生奪取なら「五冠」、それを止めるのは深浦王位。竜王戦で、羽生が挑戦者になるための最初の大難関は、羽生・深浦対決。

この間書いたけれど、まずは来週、8月13日の二人の再びの対決に要注目である。