著作の反響、将棋をめぐる感想、「日と月と刀」

中央公論に掲載された「グーグルに淘汰されない知的生産術」を全文公開したところ、思いがけず大きな反響があった。そして反応の全体がとても好意的だったので、たいへん嬉しく思いつつ、ほっとした。
僕はネットの可能性とともに怖さというか幼さもよく知っているから、いまは、新聞や雑誌に書くときのほうが(直接の反応がないから)肩の力が抜けて、気楽にやっている。一昔前の常識に比べれば、倒錯とも言うべき状況かもしれないが、それが正直な心境だ。
だから、田中さんから中公の文章を「どうぞ公開していいですよ」という申し出をいただいたときは、少しドキッとして全文を読み返したりした。「ネット公開を前提とした推敲」をしていない文章だったからだ。でも公開することで、雑誌を読まなかった数万単位の人たちに、何か参考になるかもしれない内容を届けることができて、よかったと思います。
ところで先週、齋藤孝さんとの共著「私塾のすすめ」が刊行された。本は、雑誌・新聞と違って、その感想・書評がネット上に溢れるので、刊行直後はたいへん緊張しながら、ネットと向き合うことになる。
そして、いつもながら、力のこもった書評・感想の数々を読むことができている。とても勉強になる。感謝の気持ちでいっぱいだ。


さて、先週は森内・羽生の名人戦第三局が大変な盛り上がりを見せた。時差の関係で、西海岸から楽しみやすいのは日本時間深夜に及ぶ順位戦で、タイトル戦は夜早く終るからリアルタイムでの観戦は難しく、この稀代の熱戦をリアルタイムで楽しめたのは、最後の最後だけだった。
よって、名人戦棋譜速報サイト(有料)から棋譜と解説を印刷し、いくつかのブログを読み、将棋盤に向かってゆっくり並べていった。
そして並べ終えてまず、佐藤康光棋聖と対談したときに、佐藤さんが発した「名局が生まれる条件の第一は、大舞台での対局であること」という言葉(産経・元旦紙面)を、思い出した。
名人戦は今年から朝日新聞毎日新聞の共催となり、将棋界をあげて盛り上げている一大イベントだ。特にこの第三局は、全国津々浦々で大盤解説会が開かれるという、特別な一局でもあった。
最終的に「50年に1度の大逆転」と報じられる大熱戦になったわけだが、劣勢から逆転にいたった羽生さんのエネルギーは、永世名人位や目前の勝利への執着だけによって生まれたものではなく、日本中の将棋ファンが注目する特別な一局を、意味あるものとして差し出したいという「将棋への愛情」、そして「将棋界第一人者としての使命感」に支えられていたのだろう。棋譜を並べながらそう思った。
佐藤さんもそうだが、そういう志の大きな人たちだからこそ、「名局が生まれる条件の第一は、大舞台での対局であること」となるのだ。
もっとも羽生さんは、羽生マジック(終盤の大逆転を引き出す勝負術)について尋ねられて、こう答えている(将棋世界08年3月号)から

私自身がどうこうということではなく、将棋は"最後までわからない"ということが大きいのではないかと思います。終わりに向かって可能性が小さくなるゲームでは逆転は少ないでしょうけど、将棋は、常に可能性は低くならない。その意味で、将棋には"最後までわからない"という要素がふんだんに含まれています。だから、私がやっているからということではなく、将棋はそういうゲームなんだ、ということだと思います。たとえば囲碁は、終わりに向かって可能性が低くなります。

羽生さん自身は、傍で思うほど「劣勢」とは感じていなかった可能性が高いのだけれど。


さて将棋といえば、お父様が将棋関係の本を上梓されたとのことで、友人から一冊の本が届いた。
禁じられた遊び」(巨椋鴻之介詰将棋作品集)という豪華本だった。函入りの本なんて久しぶりだ。

禁じられた遊び 巨椋鴻之介詰将棋作品集

禁じられた遊び 巨椋鴻之介詰将棋作品集

僕は将棋は好きだが、詰将棋の趣味はない。これはせっかくいただいたけれど・・・と思いながら、ページをめくったが、いやいや驚いた。これが凄い本だったのである。人が生涯に一冊だけ書ける本。そういう種類の本だった。将棋をめぐって、こういう文章表現芸術があったのかと唸った。しかし、詰将棋に疎い僕が、この本について何か書くには、相当きちんと勉強してからでないとなあ、などと思っていたら、この本の書評を、当然書くべき人が、それもまた素晴らしい書評を、僕が書きたいと思ったことのすべてを包含して、もう書いているではないか。しかもそれがネット上で読める
評者は、もちろん若島正である。僕が何かを書くよりも、この書評を広く紹介するほうが意味がある。

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詰将棋を解いたことしかない人間には、詰将棋をどうやって作ればいいのか、想像がつかない。詰将棋創作はとんでもなくむつかしいことのように見える。しかし実際には、詰将棋作家の立場から言えば、詰将棋はどのようにも作れる。そしてどのようにも作れるからこそ、詰将棋創作はむつかしいのだ。つまり、作者があるはっきりとした意図で制御しないと、作品はかたちのないものになってしまう。このことに最も自覚的であった作家が巨椋鴻之介であり、『禁じられた遊び』は、詰将棋の理想的なかたち(それを巨椋鴻之介は「フォルム」と呼ぶ)を求めてたえず模索し、作り上げた作品のどこが欠点なのかを見極めながら、次に作る作品の取るべき姿を考えていった、自意識的な軌跡が描かれている。もちろん、創作にここまで自覚的な詰将棋作家が絶無だったわけではない。しかし、そうした作家たちは、格闘の最終的な産物である詰将棋作品だけを残した。言葉では語りえなかった。『禁じられた遊び』は、そこに収められた圧倒的な作品群もさることながら、それを緻密(ちみつ)で分析的な言葉で語ったという点で、おそらく初めての「批評的」な詰将棋作品集となっている。
優れた芸術作品は、鑑賞する者に至福を与える。たとえば詰将棋なら、それを自分の頭で解き、作者が仕組んだ絶妙な構想を発見し、配置されている駒が何重にも働く機能的な美や、全体的なまとまりの美しさに触れた者は、この芸術パズルを知ってよかったとつくづく思う。ただその一方で、芸術家が自作について明晰(めいせき)な言葉で語ってくれたら、どんなにすばらしいだろうかと夢想することもしばしばある。本書では、その夢想が現実になっているのだ。
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本書は詰将棋の歩みと、巨椋鴻之介の本名である佐々木明という一個人の歩みを綴(つづ)ったものにもなっている。その本名は、最後のページでようやく登場する。フランス文学者で、『新スタンダード仏和辞典』の編者であり、ミシェル・フーコーの『言葉と物』の翻訳者。
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禁じられた遊び」は、芸術家で文章家の著者・巨椋鴻之介が、自作について明晰な言葉で語る夢のような作品なのだ。将棋ファンの人は是非、若島正氏の書評の全文をまず読み、この本を手に取ってみるべきと思う。


さて、読書といえば、いま没頭して読んでいるのは、丸山健二の「日と月と刀」(上、下)である。

日と月と刀 上

日と月と刀 上

日と月と刀 下

日と月と刀 下

僕はファンというほどまででもないが、丸山健二の著作をずっと追いかけているけれど、本書が氏の最高傑作なのではないだろうか。いや、日本文学における大きな達成、と評価される可能性もはらんでいる作品なのではなかろうか、そんなことを思いながら読んでいる。
ところで丸山は最近、自著「日と月と刀」について、こんなふうに書いている(日経新聞4月20日)。

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四十代後半に狙いをつけた長編小説があった。テーマも構想も充分だったが、敢えて書かなかった。なぜなら、その大空を飛翔するだけの翼の力が具わっていないという自覚があったからだ。
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日本が最も日本らしく、底抜けに自由で、生き生きとしていた室町時代を背景に、かの有名な「日月山水図」の屏風絵と、それを描いた作者が不詳であることを想像の起爆剤に用い、極めて大胆な発想によって、小説の原点とも言うべきめくるめく物語を構築し、かつてどの書き手も為し得なかった形式と、漢語と大和言葉との融和を図る文体を存分に駆使しなければならない、新境地だった。六十代に入ってまもなく、今ならそれが書けるという自信を得た。
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ぶっ飛んだ小説を、原始的で、呪術的で、異常なまでの吸引力を秘め、それでいながら格調の高い大叙事詩のごとき長編小説を無性に書きたくなった。膨大な資料を読みあさりはじめたのが二年ほど前だった。そして、昨年の暮れに千三百枚を脱稿した。
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あれくらいの長い年月を費やさなければ、これくらいの作品は書けないのだということが、また、この喜びを味わうための四十数年の助走であったということが実感された。