現代将棋が表現する思想

ふたつほど将棋の話が続いたが、ついたはてなブックマークの数もさることながら、ページビューが本当に多かった。やっぱり将棋は、多くの日本人の心にしっかりと根付いている、素晴らしい伝統文化であり芸術なのだと改めて思った。
mixiのある方の日記が、僕の前エントリーを紹介して、

思想か、芸術を鑑賞、分析するような内容の文章です。現代将棋が表現しているものは、思想であり、芸術ともいえるものと思うので、梅田氏の文章は共感して読みました。

と書かれていた。僕は現代思想とか言われている世界の話はまったくわからないので何も言えないが、ひとつだけ言えることは、「情報の世の中における意味」「情報が社会を変える」という観点で、将棋の世界の最前線で起きていることが、我々の社会全体でいずれ起きることを先取りして実験してくれている、ということだ。
トラックバックをいただいたid:essaの「奇襲戦法の背後には理論の緻密化がある」が面白かった。

将棋の「藤井システム」という戦法がある。

この戦法は、表面的に見ると奇襲戦法だ。この説明の第5図を見ると、振り飛車の癖に居玉のまま玉側の桂が飛び出して攻めこんでいる。あらゆるセオリーに反したことをやっている。セオリーに反していることが強みである。

物理学者が手品師に騙されて超能力を信じこんでいるようなものである。あるいは、経済学者が詐欺師に有り金全部取られた格好。

普通は奇襲というのは騙しうちなので一回しか通じない。相手がそれに応じた対策を取れば、逆にボロ負けするものだ。

ところが、藤井システムは、一方で定跡研究の最先端でもある。相手が奇襲を避けると、きちんとセオリーにのっとり、過去の定跡を踏まえた上でその上のレベルの対応をする。

詐欺師かと思っていたその男には、実はすごい学識があって、金を取りもどしに行った所でアカデミックな議論をしかけられ、もう一回負けてしまったようなものだ。(中略)

あとで指せる手はあとまわしにしましょう、という考え方

が、情報戦の側面を見せる現代将棋の根本原理だと言う。「藤井システム」もその流れの中にある。

藤井猛九段が構想した「藤井システム」の解説はここではあえてしないが、「藤井システム」を知っている人はもちろん、知らない人の中にも、この文章を読んで、なるほど面白そうだ、と思う人がいるだろう。
将棋の世界について、もっともっと多くの「素人」(僕もその一人)が語り出すといいと思う。将棋の世界では「素人」でも、別の世界では一流のプロとして生きている人たちの知や解釈が将棋の世界に流れ込むことで、より多くの人が将棋に関心を持ち、将棋を素晴らしいものだと再認識する一助となるに違いないからである。essaさんはこう続ける。

「高速道路」という言葉が、梅田思想の中でひとつのブレークスルーになったことも、その分野では観客でしかない羽生さんが、本業の人には思いもよらない方向から奇襲をしかけてたまたま成功したと見るべきではないのだろう。
羽生さんは観客ではなく主役の一人であり、日々、切実に実感していることをうまく(やはりうまく言ったものだとは思うけど)一言で言っただけなのだ。
情報の拡散がある閾値を超えた時に、過去のセオリーや学問が緻密に研究され尽くして奇襲戦法のように見える何かが生まれる。

「高速道路」論が羽生によって語られ、それが多くの人に共感を持って受け入れられたことは、さっき言った「「情報の世の中における意味」「情報が社会を変える」という観点で、将棋の世界の最前線で起きていることが、我々の社会全体でいずれ起きることを先取りして実験してくれている」ということの裏づけでもある。羽生が「観客ではなく主役の一人」とは、まさしくそういうことである。
羽生は、二宮清純との対話の中で、最近こんなことを言っている。

権利関係がないおかげで、ここまで急速に進化している面もある。あまり厳格に決めないほうがいいとも思うんです。だから、「知的財産権をなくした世界はどうなるのか?」というモデルケースとして見てください。「自分が隠しもってる意味はあまりない」という世界で、いったい何が生まれてくるのか。(「歩を「と金」に変える人材活用術」p81)

羽生は、将棋の世界が社会のある部分を先取りした実験であることを、明確に意識しているのである。

将棋に話を戻すと、いまは知識の雪だるまを作ってるような段階です。どんどん蓄積して、どんどん分析することで、雪だるまが急激に大きくなっている。転がり続けていますから。でもその雪だるまって、どこまで育つかまだ分からないんですよ。そのデータベースがかなりの量を網羅していったときに、ひょっとすると相乗的な効果が生まれてくるかもしれませんよね。誰も予想してなかったイノベーションが起こったり。そこはすごく期待しているんですけど。(同 p79)

「将棋に話を戻すと、」という前置きを除けば、グーグルの創業者とほとんど同じことを羽生は喋っている。羽生は将棋の世界の情報について、グーグルは世界中のすべての情報について、同じことを意識しながら、同じことを目指している。でも、もちろんその効果、影響は、限定的空間である将棋の世界で先にあらわれてくるのだ。

みんなで強くなっている感じはありますね。そのときに「知識の共有が最適な戦略だ」とみんなが認識するかどうかが、すごく重要な問題だと思うんです。「俺の秘策は教えない」とかいう人が出てきたら、オープンにすることで一緒に成長するという前提が崩れてしまう。(同 p79)

続いて語られたこの部分などは、まつもとゆきひろのようなオープンソース世界のリーダーの誰かが喋っているのかと、あやうく聞き違えてしまう。

二宮 感想戦の話のときも、「手の内をさらすほうがいい」とおっしゃいましたが、やっぱり羽生さんとしては「共有すべきだ」という意見なのですね。
羽生 そうです。そのほうが絶対に早い。
二宮 でも、本音では反対の人もいるでしょう? 「俺は見せたくない」って。
羽生 もちろん、そういう考え方もありうると思うんです。でも、時代の流れというか、共有しないと生き残れない時代になってますから、多勢に無勢という印象はあります。気持ちはわかるんですよ。創造って、手間も時間も労力もものすごくかかるから、簡単に真似されると報われません。私も対局で新しい試みをやるんですが、ほとんどはうまくいかない。仮にうまくいっても、周囲の対応力が上がっているので厳しいものがある。効率だけで考えたら、創造なんてやってられない。
二宮 すぐ追いつかれるということは、創造性を発揮するタイプより、むしろ状況への対応力があるタイプのほうが有利になるということはありませんか?
羽生 そうですね。でも、逆に考えると、創造性以外のものは簡単に手に入る時代だとも言えるでしょう。だから、何かを創り出すのは無駄な作業に見えるけど、一番大事なことなんじゃないかと。それ以外のことでは差をつけようがないので、最後は創造力の勝負になるんじゃないかと考えています。

この対話などは、将棋ということをまったく忘れて味わうべき思想に違いない。羽生は最後におそろしいことを言っている。

創造性以外のものは簡単に手に入る時代だとも言えるでしょう。

これは、産業の世界で言う「コモディティ化」の議論そのものである。羽生のいまのところの結論は、厳しいながら、権利のない世界のほうが進歩が進む、だから(進歩を最優先事項とするなら)情報の共有は避けられない、そういう新しい世界では、一見モノマネをして安直に生きるほうが正しいかのようにも見えるのだが、無駄なようでも創造性を生もうとする営みを続ける以外、長期的には生き残るすべはない、ということのようである。
この言葉は重いと思う。

でも、時代の流れというか、共有しないと生き残れない時代になってますから、多勢に無勢という印象はあります。

という言葉は、前エントリー「「空白の二十年」を埋める営み(現代将棋を学ぶ)」の中で述べた、将棋の真理追究者たち、つまり羽生をはじめとする「そんな共通した想いを持っている棋士たち」が多勢になった、ということをも意味している。そしてその結果、現代将棋が「思想」を帯び始めたのである。


参考図書

歩を「と金」に変える人材活用術―盤上の組織論

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