法科大学院での特別講義

東京滞在最後の日の午前中、夕方の便でサンフランシスコに戻る直前ですが、早稲田大学法科大学院(ロースクール)で特別講義なるものを初めてやりました。
友人の弁護士(シリコンバレーのローファームで彼が働いていたときに家族ぐるみで付き合っていた)が持っている授業の枠で、話をしに来てくれないかとずいぶん前から頼まれていたからでした。
僕には法科大学院で話す専門性なんか何も持ち合わせていないのですが、彼が「自分がハーバードのロースクールにいたときの授業で、いまもいちばんくっきりと記憶に残っているのは、法律とまったく関係のない他分野の人が話をしにきたときの講義なんです。雑談でもなんでもいいから来てください」と言うので、何事も経験と思い切って引き受けたという次第でした。
グーグルの話や、「ウェブ時代をゆく」の中でも少し触れたグーグルの社内弁護士200人体制の話、シリコンバレーの対抗文化(カウンターカルチャー)思想と法律の関係など、まあそれらしき話は準備して行ったのですが、当日の早朝四時頃ふと閃いて、せっかくの機会なので話しておきたいなと思ったことができ、あわててその話を「講義の枕」用に準備して、ひとつ朝食ミーティングをこなしてから、高田馬場に向かいました。
その話というのは「皆さんは、人間への関心をどのくらい、どのように持っていますか」ということです。理系の人間に囲まれて暮らしていると、彼ら彼女らが「モノへの強い関心」を持ちながら暮らしているのがとても印象的です。でも法律にたずさわる仕事をする人には、「人間への強い関心」を持つことが不可欠ではないかなと思ったのです。司法試験を受けようとするような人たちは皆、成績優秀なエリートたちでしょう。でも、法律が取り扱う相手は、よほど特殊な専門分野を選ばない限り、基本的に「何万人に一人」のエリートたちではありません。あらゆる境遇のあらゆる種類の人たちの、やむにやまれぬギリギリのところでおこなう行為と向き合うのが法律の仕事ではないか、と僕は常々思っている、という話をいくつかの実例を挙げながら話しました。
僕の友人で、医者から転じて凄腕のビジネスマンになった人がいますが、彼が医者を辞める決心をした理由を聞いて、そうかと得心したことがありました。
「医者にいちばん大切なことは、頭がいいことでも、腕がいいことでもない。目の前で苦しんでいる患者さんを助けたい、という気持ちを心からもてるかどうかだ。僕にはそういう気持ちが本当になかった」
と彼が昔を振り返って言ったからでした。法律の世界も、突き詰めていくと同じなんじゃないかな。
それで、「頭はいいけど、人間に対する関心なんかまったくない人は、法律なんかより別のことやったほうがいいんじゃない?」なんてちょっと暴走したら(僕は丸善での講演のように一語一句オープンになる場では絶対暴走しないけど、密室ではすぐに暴走してしまう)、弁護士の友人が「まあ、いまはとにかくしっかり勉強して、司法試験受かってから、いくらでも選択肢はありますから」なんて「大人のフォロー」をしてくれたりしました(笑)。彼は僕より若いんだけど、うんと大人でした。
そんなこんなであっと言う間の90分でしたが、聴いてくれた人たちからのいくつかの感想文を読むと、枕の部分の話がよかった、というのが多かったので、早起きして準備した甲斐があったなと思ったりしました。