自らの傾向や「向き不向き」に向き合うこと

自分の「好き」を発見するのは難しい。自分で「好き」だと意識していないことが実は「好き」だったのだと何年もたって発見することもある。「継続できる」というのは「好き」の証明であり、何事においても「継続できる」ことが、何かを成し遂げるためにはとても大切だ。それは大企業であれベンチャーであれ自営業であれ研究者であれエンジニアであれ、同じこと。自分が意識していない自分の傾向も含め「向き不向き」ときちんと向き合い続けることの重要さを、僕は指摘したいのだ。そのためにここのところ、色々と書いている。
僕が昨日のエントリーで「大企業に入っても「好き」を貫くこと、つまり「継続する」ことができる」素質の候補をいくつか挙げた。どういう読み方をされてもかまわないのだが、たとえば就職を控えている学生が、自分が「大企業に入っても辞めないでいられる」かどうかの思考実験の道具の一つとして読んでもらってもいいかと思う。大企業に入ってもすぐに辞める人が増えていると聞くし、僕が社会に出た八十年代半ばに比べると、大企業以外の選択肢も社会にずいぶん増えてきたから、学生がいろいろと迷うみたいだ。日本の大企業ってどんなところなのだろう。皆いろいろなことを言うがよくわからない。そんな悩みをよく聞く。
この二十年、日本の大組織の観察や研究を僕はずっと続けてきた。クライアント企業の仕事仲間や自分の友人たちや先輩たちの仕事ぶりを眺めながら、ひょっとしたら「そこに居たかもしれない自分」が、その世界で果たしてやっていけたのだろうかと自問し続けていた。昨日のエントリーはそういう思考の集積のエッセンスの一部である。
新人が大企業の洗礼をまず受けるのは「配属」である。何年か先には「転勤」とか「配置転換」とかがある。それがずっと繰り返される。「配属」「転勤」「配置転換」された先によって、仕事の内容も違えば、住む場所も違えば、上司も違えば、周囲の人々も違う。ゼネラリストとスペシャリストの違いは若干あるが、これだけグローバル化して先が読めない時代に入ると、わが身にはその組織が対象としている仕事に絡むどんなことでも起こり得る、くらいに覚悟しておいたほうがいいのだろう。僕くらいの年になっても、いきなり全く未経験の部や事業部を任されたり、行ったこともない国に突然住んで働くケースもある。
色々な意味で「好き嫌い」の激しい僕のような人間は、これだけで戦々恐々としてしまう。自分の「専門性」というのをがっちり固めて、できるだけ「嫌いなこと」をしないでいられる場所を探そうと若いときに考え、日本の大企業には就職しなかった。でも全くそういうふうに考えない人も、友人たちの中に多かった。どちらがよいとか悪いとかではない。これは傾向、向き不向きの問題である。「配属」「転勤」「配置転換」「別の組織への昇進」のような「他者による自分の生活や時間の使い方の規定」を、「未知との遭遇」として心から楽しめるかどうか。そこがかなり大切になる。

  • Whatへの「好き嫌い」やこだわりがあまり細かくなくおおらか。一緒に働く人への「好き嫌い」があまりない。そして苦手(つまり「嫌い」)を克服するのが好き。
  • 与えられた問題(課題)を解く(解決する)のが好き。その問題(課題)を解く(解決する)ことにどういう意味があるかとかよりも、その問題が難しければ難しいほど面白いと思う。
  • 「これが今から始まる新しいゲームだ」と「ルール」を与えられたとき、そのルールの意味をすぐに習得してその世界で勝つことに邁進する、みたいなことが好き。
  • 短期決戦型勝負よりも長期戦のほうが好き。

あたりの要素に◎がつく人は、こういうことでは挫折しない。辞めたいなどとは思わない。むしろ楽しいと思える「傾向」にある。ゲーム好きのアングロサクソンの連中が、アメリカの「CEO」タイプ(どんな領域の会社でも経営できる、領域が好きだ嫌いだなどというこだわりは全くない)でけっこういるが、彼らは「新しいゲームのルール」が提示され、そこに存在する難題が提示されると、もう人生のすべてを没頭するような感じで、その解決に取り組み、そのプロセスを楽しむ。ゲームが好きなのだ。そのゲームが何であれ。
次に新人が洗礼を受けるのは、大企業の「巨大さ」である。その「巨大さ」の中で個の「無力感」を感じてしまうか、その「巨大さ」を楽しめるかどうか。ここもとても重要である。組織は「巨大」であるゆえ、ほぼすべてが「チームプレイ」になる。よってその人が「チームプレイヤー」であるかどうかが、挫折したり幻滅したりしないためには、とても重要になる。体育会出身の人達がじつにうまく日本の大組織にフィットするのは「チームプレイ」ということと相性がいいからだろう。「自分の名前で仕事がしたい」という、どちらかというと芸術家肌というかそういうタイプの人は、このあたりで悩むことになる。むろん飛びぬけた人は大組織の中でも「実名」でやっていけるかもしれないけれど、それは「大企業で長く継続できる」という隠れた資質があったうえでのことだ。新人でいきなり「自分の名前で」なんてあり得ない。

  • 匿名性を好む。「これは自分がやったことだ」というような意志表明(自分の名前で仕事をすること)にあまり興味を持たない。むしろ一人ではできない大きなことを仕事ではしたいと考える(たとえば世界中に普及する自動車の開発に関与したというようなことを好む)。
  • 「巨大なものが粛々と動いていく仕組み」みたいなものが好き。工場が好き。プラントが好き。巨大建造物が好き。社会のルール作りみたいなこと(立法っぽいこと)が好き。

あたりに◎がついた人は、こういうところであまり躓かない「傾向」にある。
そして次に重要なのが、体力(持久力)である。ここぞ勝負と「ベンチャーに三年くらい没頭する」みたいな瞬発力的な体力(あるいは「好き」なことならいくらでも続けられるというようなタイプの体力)というよりも、長く長く淡々とマラソンを走るような体力である。とにかく大企業の人達は忙しい。これは組織の「巨大さ」、やっている仕事の「巨大さ」と深く関わっていて、本質的な問題である。自分ひとり仕事が終わっても「終わり」になどならないからだ。交渉ごとであれば相手もある。相手も巨大組織だと意思決定にも時間がかかるし、巨大な案件であれば、意志決定者と現場で働く人の間に階層がいくつもあるから、さらに時間がかかる。意思決定が覆れば、やった仕事が無駄になることもある。そういうことも全部ひっくるめて「巨大さ」を楽しめることは、極めて重要な要素になるし、それとセットになった持久力を持つことが大切だ。
また、仕事は仕事、「好きなこと」は「好きなこと」で仕事以外でというふうに、自分が割り切れれるかどうかを自問するとき、仕事への長期にわたる長時間コミットメントという問題については、ある程度、覚悟しておいたほうがいい。これは組織の非効率とか批判しても簡単には解決しない。組織や仕事の「巨大さ」とセットになった副産物だからである。そことの親和性が自分にあるのかどうか。大企業に長く勤めながら、趣味で大きな自己実現をされている方々がたくさんいるが、そういう方々も、よくよく話を伺っていくと、大組織に親和する「隠れた資質」を持った上で、そういう持続ができているケースが多いのである。
理由や背景や具体例を挙げ出せばキリがないが、以上、昨日のエントリーの補足である。
学生が社会と初めて接点を持つのは、多くの場合就職活動であり、その中で否が応でも「大企業への就職」が視野に入ってくる。だから「好きを貫きたい」と考えつつも、それを大企業の中でできるだろうかとまず考えるのは、とても自然なことだと思うのだ。そのときとても大切なことは、その本質(大企業の場合は大企業の醍醐味みたいなもの)に近づく前に躓いてしまいそうかどうかということだ。選択肢があまりなかった昔は、「我慢しろ」と言われて従ったものだが、今は時代も違うので選択肢も多い。そこのあたりをきちんと突き詰めぬまま躓き「ここではないどこか」を求めて動き続けるのではなく、早い時期から、自らの傾向、向き不向き、ということに意識的であってほしいのである。