無限から有限へのマッピング: ものを書くということ

金子金五郎(http://www.shogi.or.jp/syoukai/bukko/kaneko.html)なんて誰だかよくわからん、というのがこのブログの大半の読者なのは承知のうえで、僕が金子金五郎のことを書くのは、「一局の将棋」という無限の広がりを持つ対象を、有限の字数、読者の有限の時間にマッピングさせる見事な芸を、金子金五郎が持っているからである。1902年生まれの金子金五郎が1990年に逝去した後、将棋解説という文章の技芸において、「一局の将棋」という無限を有限にマッピングすることにおいて、誰も金子の域に到達していない。どうも僕はそういう技芸に深い関心があるらしい。金子から何かを学びたい、と痛切に思う。ものを書くということにおいて。
たとえば、インターネットについて、グーグルについて、Web 2.0について、ウェブ進化について、はてなについて、近藤淳也という一人の人物について・・・、有限の字数で語る方法はそれこそ無数にある。語るべき対象はそれぞれ、「一局の将棋」と同じく無限である。
ではいかにして、そういう対象を書くのか。
まず「構造化」ということがある。
対象を出来る限り幅広い視点から俯瞰して理解しようとつとめ、対象を構造化することに腐心する。「知識の構造化」という著書もある東大総長の小宮山宏先生とプレジデント誌で対談したときのメインテーマも、この「構造化」という問題だった。平野啓一郎氏との対談「ウェブ人間論」の中でも、高速道路の先の大渋滞を抜ける能力の一つとして「構造化」能力があるよね、ということで意見が一致した。将棋というものはもともと「構造」がしっかりした構築物だが、「一局の将棋」ではないテーマの場合はこの「構造化」がおそろしく重要である。
次に「想定読者」ということがある。
このあたりから、学者の守備範囲を大きく逸脱した「文章の技芸」という「けものみち」っぽい領域に入ってくる。ある文章に何か真実が書かれていようと、誰も読まなければ存在しないのと同じだ、という見切りがあるかないかで、「想定読者」を意識することにおける真摯さが全く異なるものになる。誰にとってわかりやすい「構造化」を行い、誰にとってわかりやすい文章を書くのか。そういうことを徹底的に考え続けるということである。金子金五郎の場合でいえば、将棋を覚えて将棋がちょっと面白くなって夢中になっているくらいの人からアマチュア有段者まで、という「将棋ファンのマス」に対して、その文章が見事に射程されている。
そしてここで次に、「書き手の個性」という問題にぶちあたる。厳密にいえば「構造化」と「想定読者」は普遍的なものであるから、「私」と「あなた」の書くものが同じになる可能性がある。だから「私」が書いたものだ、という個性の表出という問題にここでぶつかるわけである。「想定読者」にもよるが、多くの読者は文章の向こうの「書いている人」を読みたいものだ。よって「私の経験」「対象と私の関係」を、明に暗に、意識的に戦略的に、織り交ぜながら書くことが重要になる。
そしてこの三要素のすべてに重要なのは、わざと「うそを書く」リスクをとる、「うそが書かれている」という状態に対する批判を受ける決心をするということである。無限から有限のマッピングというのは、そもそも無理なことなのだ。そう見切ったとき、文章は全く違う色彩を帯びてくるものだと思う。
塩野七生が新春の日経新聞インタビューで、「芥川龍之介の言葉ではないが「ときにはうそでしか表現できない真実もある」のです。実を超えるために、実に近づくために、虚のやり方がいい場合もある」と話していたが、全くその通りで、ギリギリまで「構造化」「想定読者」「書き手の個性」という三変数をいじりながら、文章という構造物をああでもないこうでもないと構築していく真摯な努力をしていくと、そのことがわかる。金子金五郎の文章の中にも、ここはわざとうそをついているな、そう見切って書いているのだな、とわかるときがあって嬉しくなる。
以上、僕はこんなことを考えながら、文章を書いている、という話。
ブログや本を書こうと思っている人の何かの参考になればと思う。
金子金五郎の将棋解説を読みながら塚田升田の戦後まもなくの名勝負を並べていたら、ふとこんなことが書きたくなった。これも金子金五郎の力ゆえであろう。