オルハン・パムク「雪」

だいたい忙しいときほど、どうしてもそのときにしなくていい別のことにはまってしまうものだが、いま「雪」を読んでいる。
「雪」の舞台は、90年代初頭のトルコの地方都市カルス。この小説を読みながらつくづく思うのは、日本に近いアジアと欧米までは、その地の歴史や現実についての想像力が何とか働くけれど、トルコとなると、ただシンプルに歴史的事実が書かれているだけでもドキドキするほど新鮮な印象を持つ、ということだ。そしてこの小説は、全体、構造もさることながら、細部が素晴らしい。

雪

・・・・・男たちの全ては、憂鬱感のために萎えているのを見たと彼は言った。「奴らは茶屋で何日も、何日も何もしないで座っている」と語った。「どこの町でも、何百人も、トルコ中で何十万、何百万人もの失業者や成功しなかった者、希望のない者、動こうとしない者など哀れな男たちがいた。彼らには自分をきちんとすることも、薄汚れた上着のボタンをはめて、意思や腕を動かす力も、一つの物語を最後まで聞くだけの注意力もなく、冗談に笑うこともできなかった。」彼らの大部分は不幸せのために眠れないこと、煙草が自分を殺してくれると喜んでいること、話し始めた文は最後まで言う意味がないとわかって途中でやめること、テレビの番組を好きだったり楽しかったりするからではなくて、周囲にある憂鬱に我慢できなくて見ていること、本当は死にたいと思っていること、しかし自分を自殺するに値するとは思えないこと、絶えず罰則について語る軍のクーデタの方を、希望を約束する政治家よりはよいとすることなどを語った。部屋に入ってきたフンダ・エセルも、不必要なほど生んだ子供たちの面倒を見て、夫がどこにいるのかすら知らず、どこかで女中や煙草労働者や絨毯織りや看護婦などをして、僅かな金を稼いでいる彼らの妻たちがいると付け加えた。絶えず子供たちに喚きちらし、泣いて生きているこの女たちがいなかったら、アナトリア中に伝染している、全て似たような薄汚れたシャツを着た、髭を剃らない、つまらなそうな、趣味のない、何百万の男たちも、凍てつく夜に凍えて死ぬ乞食や、居酒屋から出て開いていたマンホールに落ちて死んだ酔っ払いや、あるいはまた、パジャマでつっかけを履いて近所までパンを買いに行かされて道に迷った呆け老人のように、いなくなってしまったであろう。ところが、"この哀れなカルスの町"で見るように、彼らは多すぎるほどいる。そして彼らの唯一の楽しみは、一生の借りがある、そして愛していることを恥じている妻たちを虐めることだった。・・・・・・(p257-258)

余談だが、パムクの作品を、彼のノーベル文学賞受賞前にさらりと出版していた藤原書店は偉大だ。フェルナン・ブローデルの「地中海」や「歴史集成」、バルザックやゾラの新訳全集など、藤原書店がなかったら存在していなかっただろう本たちが、僕の書棚には並ぶ。パムクの「イスタンブル」もいずれ翻訳が出るだろうか。
「含む日記」から本書の感想文をいろいろ読んだが、
http://d.hatena.ne.jp/shippopo/20060903/1157278128
これにいちばん共感したな。
年末年始に久しぶりに書棚の整理をして、もう読みそうもない本、卒業したかなと思うようなジャンルの本をだいぶ納屋に移したために見晴らしがよくなった。すぐにでも読みたい長い小説が200冊もある。いずれサバティカルをとったら、ただひたすら小説を読み続けるのかもしれないなと思う。