Web 2.0の踊り場について

前エントリー「「Wisdom of Crowds(群衆の叡智)」元年」に「三上のブログ」からトラックバックをいただいた。案の定、僕がわざと使った「踊り場」という言葉への反応であった。
http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20070106/1168070930

梅田望夫さんが非常に意味深長なことを書いている。
Wisdom of Crowds(群衆の叡智)」元年の最後で、私はある言葉に眼が釘付けになった。・・・・・・・
私は梅田さんが「踊り場」という言葉を使ったことに驚いていた。と同時に一瞬「何か」が見えた気がした。「踊り場」の辞書的な意味は「階段の途中に,方向転換・休息・危険防止のために設けた,やや広く平らな所」(『大辞林』)である。まだ誰も正確には予想できない「方向転換」が「SNSやブログの枠組み」という「踊り場」で着々と準備されている。技術的なことはよく分からないが、例えば私が日々ブログやウェブで感じている色々な壁の少なくても一部が「Wisdom of Crowds」(群衆の叡智)という地平で思いも寄らない方向にブレークスルーされるはずだという予感。「どういうタイミングで何が起こってくるかは予想できないが」、その「何」かは近い将来に必ず起こるという予感。
「踊り場」には、文字通り、踊りをおどる場所という意味もある。私は一人の踊る阿呆にすぎないが、見るだけの阿呆には感じられない「何か」を確かに感じている。
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インターネット、ウェブは、これまで現実社会が「屑」として切り捨ててきた膨大な潜在的な財産を「まばゆく輝くこの幼い命」として掬いだし、社会をそれを中心に回転させるような可能性を拓きつつあるのかもしれない。

三上さんの言う「日々ブログやウェブで感じている色々な壁」は、誰もが感じている「壁」である。たとえば僕は「ウェブ進化論」序章で、

「何かを表現したって誰にも届かない」という諦観は「何かを表現すれば、それを必要とする誰かにきっと届くはず」という希望に変わろうとしている

と書いた。「変わろうとしている」のはたしかなのだが、ここにさらなるイノベーションが未だ創出されていないため、相変わらず「何かを表現したって誰にも届かない」と思っている人がほとんどで、「何かを表現すれば、それを必要とする誰かにきっと届くはず」と可能性を感じることができるのは、三上さんの言葉を借りれば「踊る阿呆」の中のほんの一部だけ、というのがWeb 2.0の現状での限界なのである。
そして、「壁の少なくても一部が「Wisdom of Crowds」(群衆の叡智)という地平で思いも寄らない方向にブレークスルーされるはずだという予感」はむろん僕にもあるのだが、それはまだ予感であり期待に過ぎず、それが具体的に何なのかは全く見えていない状況にある。こういう角度以外からのイノベーション機会も膨大にある。でもそれはまだ形になっていない。これはアメリカも日本も全く同じである。起業家やサービス開発創造者の頭の中に無数の仮説があるという状態である。
だから「Web 2.0」バブル論が出てくるのも当然だし、あと何年もブレークスルーが生まれないまま過ぎていけば、「Web 2.0って、結局、一部の人たちだけにしか意味のないもので、たいしたことはなかったね」というふうに言われるだろう(またその何年かあとにそれが覆ってWeb 3.0と言われるかもしれない)。
いまWeb 2.0とはこういう状況にある。2006年はYouTubeの年であったが、YouTube程度のイノベーションでは、まだまだぜんぜん足りないのである。
そんなイノベーションを生み出すのは、若い人たちである。別に若い人たちでなくてもいいのだが、ネットやITの世界では、これまではいつの時代もそうだったから、たぶん次のイノベーション若い人たちから生まれるだろう、そう期待するわけだ。
そういう状況で、大人は何を語り、どう振る舞えばいいのか。
ある国や会社や地域がイノベーションを生みやすい社会・組織になっているのか、そうでないのかは、たとえば現在のWeb 2.0みたいな状況における「大人の振舞い方」によって規定されてくるというのが、僕の仮説であり問題意識なのである。