人それぞれの個性について

ウェブ人間論」が木曜に発売になり、週末にはアマゾン予約注文が家に届いたりしたのだろう、日本時間日曜日午後くらいから、感想がネット上にたくさん載ってきている。「おわりに」でこう書いたが、

私は『ウェブ進化論』に対する感想を、ネット上で一万以上読み、そこからたくさんのことを学んだ。読者畏るべし、と思うことしきりだった。

全く同じことを「ウェブ人間論」の感想を読むことで感じることができてたいへん嬉しく思う。「シリコンバレー精神」のときは文庫化ということもあって、それほどネット上に感想が溢れるという感じではなかったから。
僕が平野さんとの対談をすべて終えて「おわりに」で何を書こうかと考えていたとき、まず頭をよぎったのは、僕と平野さんとの違いについてだった。
http://www.shinchosha.co.jp/wadainohon/610193/afterword.html

 たとえば、平野さんは「社会がよりよき方向に向かうために、個は何ができるか、何をすべきか」と思考する人である。まじめな人なんだなあと、話せば話すほど思った。
 その点に関して言えば、私はむしろ「社会変化とは否応もなく巨大であるゆえ、変化は不可避との前提で、個はいかにサバイバルすべきか」を最優先に考える。社会をどうこうとか考える前に、個がしたたかに生きのびられなければ何も始まらないではないか、そう考えがちだ。

この観点に共振している書評がこれで、じつに面白かった。
「『ウェブ人間論』(2):個と社会/「ダークサイドに堕ちてますよ!」 」
http://blog.goo.ne.jp/kous37/e/4dd72a21c948d8977869dfd227ded42a
これを書いた方は、たぶん僕と同世代か少し上の方ではなかろうか。

平野は梅田が「まじめな人」と評し、「社会がよりよき方向に向かうために、個は何ができるか、何をすべきか」と思考する人であるというように、私も思う。そのあたりの思考は、私も小中高大と一貫して公立・国立を出ている(おまけに都立の教員でもあった)から、よくわかるし、その思考の枠から逃げ出しがたい部分もあるくらいである。

一方梅田は自分の考え方を「社会変化とは否応もなく巨大であるゆえ、変化は不可避との前提で、個はいかにサバイバルすべきか」を最優先に考える、という。そしてこの考えもまた、私自身にとってはじつによくわかる考え方なのだ。

平野の考える人間関係は、「心の友」のようなもの、「ソウルメイト」といってしまうとまた別の話しになってしまうが、「本来『孤独な存在』である人間」がだからこそつながりを求める、という近代の荒廃した風景の中での何物にも変えがたいものとしての関係性をまず思い浮かべるのに対し、梅田には「たくさんいる友達や先輩後輩」とフランクにお互いに利用し利用されることでお互いに相手を益しあうことでともにうまくやって行こうという人間関係のとらえ方を感じるのである。

どちらが正しいか、ということは「ない」。しかし私自身は平野的な考え方を「正しい」と思い込んでか込まされてか、ここ数十年は思っていたことは事実で、特にこの十年ほどそういう呪縛が非常に強くあったと思う。この本を読んで自分自身について気がついたのは実はそういうことで、そういう意味で読んでいてどうも頭がふらふらしてしまうようなものを感じていたのだ。つまり、ある種の「洗脳」が解ける感じがしていたのだ。

詳細は全文をどうぞ。
さて、平野さんとの共通の友人・江島健太郎の文章が(最後に少し「ウェブ人間論」にも触れてくれている)、はてなブックマーク人気記事のトップに躍り出ている。
「グーグルが無敵ではないことはエンジニアだけが知っている」
http://blog.japan.cnet.com/kenn/archives/003431.html
江島節炸裂という感じで読んでいて楽しい。
エンジニアたちの強い共感を呼ぶのだろう。

さて、ぼくがグーグルの成功から学んだ教訓はこういうことだ。

まず、「ワタシはこの技術が絶対に次にくると思う」っていう言明には意味がない。ビジョナリーぶって色々なところにツバつけておいて、将来に「ほらね」って言いたいだけだ。悪いけど、それがどんなに先鋭的な専門分野であれ、口には出さずとも同等以上にわかってる奴はつねに100人はいる。それを論文にまとめたりブログに書いたりできるやつが10人ぐらいいて、本気でそれの実現に自分の人生を賭けるやつは1人しかいないっていうだけのことさ。

江島節の「さび」の部分はこれで、全くその通りだと思う。

口には出さずとも同等以上にわかってる奴はつねに1000人はいる。それを論文にまとめたりブログに書いたりできるやつが100人ぐらいいて、本気でそれの実現に自分の人生を賭けるやつは1人

に修正したくなるほどだ。
島健太郎に続いて、はてな近藤淳也シリコンバレーにやってきて、身近で彼らの苦闘を眺めていると、「本気でそれの実現に自分の人生を賭ける」というのが、どんなに苦しいことなのか、誰にでもできることではない、ということが本当によくわかる(他者から苦しそうに見えるだけで、本人は楽しんでいる、あるいは、本当は傍目と同じように本人も苦しいのかもしれないけれど、そう生きるしか生きられない)。
つい先日もアメリカ人の本当にトップクラスのエンジニアと話していて、彼は優秀だけど「本気でそれの実現に自分の人生を賭ける」っていうタイプじゃないなぁ、とつくづく思った。本当にそういう人は少ないのだ。エンジニアだからそうだ、というのではなく、人間としてそういう狂気を持った人というのは、とても少ないのである。これは「ウェブ人間論」第三章のテーマでもある。
さて、僕の立場だが、「いい加減だ」と思う人もきっといるだろうが、自分が「口には出さずとも同等以上にわかってる奴」なのか「それを論文にまとめたりブログに書いたりできるやつ」なのか「本気でそれの実現に自分の人生を賭けるやつ」なのか、そのどれでもないどんなやつなのか、それをきちんと見極めて、それぞれサバイバルしてね、ということだ。誰かが自分とタイプが違うというだけで、攻撃したり否定したりしても仕方ないじゃないかという立場だ。個性の違う他者と、うまくやっていくすべを身につけて、サバイバルできればいいんじゃないのかな、ということだ。突然余談になり、しかも批判承知で言うが、田中角栄解散総選挙の前に、自分の子分たちを集めて「演説会やなにやらで自分を徹底的に批判してもいいから、自分について何を言ってもいいから、選挙に勝って帰って来い」と言った、という逸話が僕は大好きなのだ。
極東ブログ「[書評]ウェブ人間論梅田望夫平野啓一郎)」
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2006/12/post_a97b.html
で、奇しくもfinalvent氏が指摘したように、僕はいまたまたま専門としている世界で「本気でそれの実現に自分の人生を賭ける」ような対象も狂気も持ち合わせていない。

梅田にとってはその狂気の由来が自己からは少し離れたものとして知覚されている。

梅田 僕には欠けている資質ですが、時代の最先端を走る彼らには、さっきのジョブズやベゾスと同様に、やっぱり何か狂気みたいなものがあるんです。それがないと時代を大きく変えるようなことはできない。

ただ「狂気を持った人」だけでも世の中は動かない。稀にいる「狂気を持った人」が人間的魅力という強い磁力で多様な個性を引き寄せるときに、はじめて世の中を動かすような何かが生まれる。僕は、大勢でなければできない仕事においては、間違いなく、引き寄せられる側の人間だという自覚がある。でもたった一人で何かができる世界でならひょっとすると「狂気を持った人」として何かが達成できるかもしれない、という思いは捨てていない。これは個性の問題である。