毎日新聞夕刊「ダブルクリック」欄・第九回「将棋の魅力」

毎日新聞火曜日夕刊コラム欄の第九回です。

ある新聞社からの誘いで将棋タイトル戦を観戦したことがある。
一日目は、タイトルを争う二人の棋士とともに東京から地方のタイトル戦会場に移動して前夜祭に出席する。二日目は、朝九時の対局開始に立ち会い、その後は関係者控え室で対局の推移を見守る。見学に集まってきた棋士たちの研究を横で眺める。午後からは、会場に集まった一般ファン向けの大盤解説会を見て、終局と同時に再び対局場に入って感想戦を聞き、関係者だけの打ち上げでリラックスした対局者たちも交えて飲む。そして三日目に東京に戻る。非日常的異空間への二泊三日の素晴らしい旅だった。
私は子供の頃から将棋が大好きだった。最高峰の将棋を鑑賞する面白さに惹かれ、新聞の将棋欄を毎日楽しみにしていた。そして今もシリコンバレーから、タイトル戦をネット観戦し、趣味はと尋ねられればその一つとして「将棋鑑賞」と答えるほどである。しかしこのタイトル戦観戦は、私の将棋観を大きく揺るがした。一局の将棋をめぐり、想像していたのを遥かに上回るとてつもなく深い世界が眼前に現出していたからである。
逆に言えば、一局の将棋について控え室で考えられた膨大な指し手、その周囲に果てしなく広がる潜在的可能性空間、感想戦で対局者によって披瀝された深い読み、つまり「将棋の魅力」を形づくる情報量のかなりの部分が、棋譜と観戦記にその将棋が凝縮された時点でごっそり失われていることに驚いたのだ。
紙面という物理的制約の範囲内で将棋の面白さをどう表現するか。それは新聞の将棋欄でもずっと追求されてきた。これからはそれに加え、ネットの無限性を活かし「将棋の魅力」の深さをいかに表現し伝達するか。将棋のさらなる普及のためにはそれが急務だと痛感したのである。
(毎日新聞2006年12月5日夕刊)