「勉強能力」と「村の中での対人能力」

「「これからの10年飲み会」で話したこと、考えたこと」
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20050618/p1
にいただいたコメントで、

逆に聞きたいのですが、「勉強が好き」「勉強さえできれば」でよかった時代というのは、いつぐらいの時代でしょうか?学生時代はともかく、社会に出ても「勉強が好き」「勉強さえできれば」だけで通用する時代があったとは思えませんけど……。

というのがあった。このコメント欄筆者morichuさんの感覚の方が正しいのだけれど、これまでの日本では、大雑把に言えば「通用していたんだ」と思う。むろんあくまでも、「野球がうまい」「将棋が強い」「音楽が好き」で飯が食えるか、ということとの比較ではあるのだけれど。
コメント欄でこう返答したのだが、

これまでは、官公庁の世界でも技術開発の世界でもビジネスの世界でもメディアの世界でも、特に大組織の中には、今後はどんどん無償化していくようなタイプの「知」を創出する仕事がけっこうあって、「勉強能力」と最低限の「対人能力」程度あれば、かなり恵まれた楽しい仕事人生を送る人たちがいた時代でした。そういう領域が今後は確実に崩れていくという気がしています。

ちょっと補足しておくことにする。
僕が日本の大企業ばかり見すぎているからかもしれないけれど、大企業の中で「学歴」(つまり若いときの一時期すごく勉強ができた証拠)と「あの人、頭が凄くいいらしい」みたいな評価って、別のタイプの能力(たとえば「営業能力」)を持った人からすると理不尽なほど、相変わらず幅を利かせている。「あれだけデキル(はずの)奴を利用しない手はない」みたいな感じが組織にあって、いいポジションが比較的まわってくる。つまりそんな暗黙のルールがあったから、そういう人が身につける「対人能力」ってのが、内向きの、組織内に向けての「対人能力」である場合が多い。官僚化している大会社ほどそうだ。
「勉強能力」と「村の中での対人能力」みたいなものさえあれば楽しい仕事人生を送れる、という選択肢が、ここ数十年の日本社会にはかなりあった。だから今の大組織の中には、40代、50代でそういうタイプの人たちがずいぶんたくさん堆積している。そしてけっこう力をもっているのだ、この層の人たちが、エスタブリッシュメント世界では特に。むろん頭がいいから「時代の変化」についての危機感も正確に認識しているし、「組織の外に飛び出したら自分はやっていけない(中にいるほうがおいしい)」ということもよくわかっているから、自身のサバイバルのためにいよいよ保守的になる。
なぜこういう人たちが量産されたのか。それは、彼等が若い頃は「それでよかった」からなのである。「それでいいんだ」と思って、若いときの10年、20年を過ごしてしまったからそうなった。これからは、そういうタイプの人たちの価値は本当に下落していく。
「本当に自分はそうでないのか」と胸に手を当てて考えれば、一流大学を出たかなり多くの人が、大組織に勤めているいないは別として、そういう部分の「甘え」を持ちながら生きている。
「これからの十年」さらに「その先の十年」は、そういう「甘え」が命取りになる時代なんだと思う。

そういう状況自体が今後厳しくなって、勉強が好きな少年も、野球好きの少年や将棋好きの少年や音楽好きの少年と同じような「人生の厳しさ」に直面するようになる。

「勉強能力」こそが必要十分条件だった職業ほど、「次の十年」で脅威にさらされるのである。特に生活コストの高い先進国では、その傾向が顕著になろう。

と前エントリーで書いたのはそういう意味である。むろん「勉強能力」を否定しているのではない。十分条件ではないよ、と言っているのである。では「村の中での対人能力」に代わって必要になる本当の「対人能力」とは何なのか。それはいずれ稿を改めて書いてみようと思う。
追記:
このエントリーを書いた直後に、Ringo's Weblogの「ハッカーという言葉の意味」
http://www.ce-lab.net/ringo/archives/2005/06/21/index.html#a000046
を読んだ(前エントリーへのトラックバック)。Ringo氏の言葉「人間に対する興味」は、まさに、僕が次のエントリーで書こうと思っていた言葉そのものだった。是非ご一読を。