Blog論2005年バージョン(2)

日本出張前に書いた「ブログのPage Viewについて」
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20050413/p1
などを巡って連鎖的に書かれたものを読んで、日本のBlogは明らかに米国のそれとは異質な方向へと進化しているのではないかという気がした。アメリカは実名Blogが多く、日本は匿名(ペンネーム)Blogが多いというのもよく言われていることだが、それとも関連するのかもしれない。アメリカに住んでいて思うのは、アメリカ人の自己主張の強さ、「人と違うことをする」ことに対する強迫観念の存在である。彼等は「オレはこういう人間だ、私はこう思う」ということを言い続けてナンボの世界で生きているから、Blogというツールもそのための道具として使われる。日本はそうシンプルではない。「楽しんでいただけましたか?」的なサービス精神旺盛で面白さを追求しているのが、日本の人気Blogの特徴のようにも思える。自己主張よりも読み手に楽しんでもらえるかどうかのほうが重要-->だからペンネームでいい、という感じ。それがPage Viewの多いBlogの日米での違いになっているような気がする。

面白さの追求

デジモノに埋もれる日々」の二回目のエントリー「トップブロガーのPageViewを、更に深入りして推定してみる」
http://c-kom.homeip.net/review/blog/archives/2005/04/pageview_1.html
は、Page Viewの多いサイトの自己申告内容を取り入れた情報豊富な内容となっている。そこから参照されている「アキバBlogのPageViewはどれくらい?」
http://blog.livedoor.jp/geek/archives/19073030.html
の「アキバBlogは1日18-22万Page View」という数字には正直なところ驚いた。

唖然・・・(;゜д゜) 壮絶な数字です。トップブロガーの中でも
ケタ違いのパワーを発揮されておられます。622万pv/月 =20.7万pv/日です。

デジモノ氏も書かれているけれど、確かに壮絶な数字だ。切込隊長Blogの倍以上のPage Viewである。
まもなく1,000万サイトに到達しようというアメリカのBlogを全部ウォッチしているわけではないが、少なくともBlogが話題になる中で、こういうエンターテインメント系Blogの話は少ない。面白いものが増えたきたよ、という話よりも、シリアスなものが増えてきたからジャーナリズムを脅かすとか、ビジネスでも使えますよとか、そういう方向に議論が進んでいるように思う。

少しずつ増えてきたけれどまだ層が薄いシリアスなBlog

僕が前のエントリーで磯崎哲也さんのBlogに言及したため、磯崎さんもご自身のBlogのPage Viewを申告された。「ページビューのカミングアウトをしてみる」
http://www.tez.com/blog/archives/000430.html
がそれである。

梅田さんは、isologueが月間12万pvくらいだったとき(昨年10月くらい)のことを引用していただいてますが、その後スルスルとpvが増え、3月は「ホリエモン効果」で108万pv。4月はちょっと落ち着きましたが、それでもコンスタントに平日3万pv超、休日2万pv超(来訪者数はその1/3くらい)のペースでご来訪いただいており、今月は月間で85万pv程度になりそうです。

半年で月間12万pvから85万pvまで7倍以上に伸びているというのはもの凄いことである。磯崎さんが自ら「ホリエモン効果」とお書きになられているように、時事性の強い話題に対して優れた考察をリアルタイムで書くというリスクを磯崎さんが取られた結果の伸びであろう。これは実力があって自信のある人にしかできないことだ。こういうシリアスなBlogが果たして日本でもっともっと増えていくのか。僕の個人的関心はそのへんにある。

Blogの登場と「知的生産性の向上」

僕自身が2002年から2003年にかけてBlogという現象に強い関心を抱いたのは、実は「面白いものを読みたい」ということを求めてのことではなかった。
私事になるが、僕が1980年代後半に「IT産業に特化した経営戦略の研究」ということを専門にして以来、どういう勉強法を工夫したかということを少し触れておきたい。
前にもどこかで書いたことがあるかもしれないが、「米国IT産業の最前線で活躍する超一流の個人(経営者、技術者、コンサルタントベンチャーキャピタリスト、ビジョナリー、起業家・・・)が、どういう言葉をリアルタイムに肉声で発するか」というところに焦点を絞り、僕は徹底的にその肉声に耳を傾け続けてきた。それをもう15年以上も飽きずにやっている。「IT産業は大きな流れとして、これからどういう方向に向かっていくのか」という研究テーマについて、他の人には他の人で色々と勉強法はあるだろうが、そういう肉声に刺激を受けて考えるしかない、とあるときに気づいたからだった。それは僕の場合、「新しい技術に関する先端研究内容や、世の中で提案されている標準等の詳細を眺めることからIT産業の行く先を直感する」という技術的才能を欠いているためである。その才能の欠如を補うために編み出した苦肉の勉強法だったのである。僕の書くものが「IT産業好きの文系的な人たちや経営者たち」に愛好される理由でもあり、「本物の技術的才能を持った人たち」からやや胡散臭いと思われる理由と、深く深く関係している。
そして「肉声に耳を傾ける」勉強法という意味で、

  • 1980年代後半から1990年代半ばのインターネット登場まで
  • インターネット登場からBlog登場まで
  • Blog登場から現在

と三期に分ければ、インターネット登場よりもBlog登場のインパクトのほうが圧倒的に大きかった。つまり2002年後半くらいから、僕の勉強法における「知的生産性」は著しく向上したのである。だって皆が肉声で語り始めたんだものね。
Blog登場前は、厖大な記事系コンテンツの中から、僕がリストアップしている人たちの言葉が引用されている部分を探すことが重要な作業だった。これがけっこう手間暇がかかる。また、本や記事になっているような内容はだいたいもう古いから、できるだけリアルタイムの言葉がほしい。だからもちろんコンファレンスにも出かける。それにはカネもかかる。どうしても誰かに会って話を聞かなければならないとすれば、さらに厖大な準備とネゴが必要だ。つまり「誰かのある大切な言葉、一行」を得るための労力とコストはもの凄く大きかった。
それがBlogの登場とともに驚愕。重要な人たちの大切な言葉が無償でインターネットに、ずるずるずるずる、これでもかこれでもかと溢れてくるではありませんか。これは本当に驚いた。その驚きと感動みたいなものが、僕のバイアスしたBlog観のベースになっている。
皮膚感覚として言えば、5年前に週の半分くらいを費やして得られた勉強成果を、今は毎朝30分の勉強で得られる。そこから先は、勉強の質のさらなる向上か自由時間の増大の選択となる。僕にとってのBlog登場の意味は、恐ろしいほどの「知的生産性向上」だったのだ。Blogを書く時間だって、この「知的生産性向上」によって生まれた余剰時間ゆえに捻出できることだ。

裏切られた期待

そういう意味で、CNET Japanで「英語で読むITトレンド」を連載していたときのHidden Agendaは、僕の連載がきっかけの一つになって、日本のIT産業界の超一流の個人が肉声や本音や仮説をどんどんBlogを通して語ってくれるようにはならないものか、という期待であった。
確かに堀江さんや藤田さんをはじめとして、日本のネット系ベンチャーの社長がBlogを開設するようにはなったが、ライフスタイルの開示やベンチャー起業・精神論みたいな「面白さの追及」に終始して、中身のある話は少ない。大組織に属する超一流の技術者や経営者が本気でBlogを書くということも、どうも日本では起こりそうもない。磯崎さんのBlogのような質の高いものが、ありとあらゆる分野で、これでもかこれでもかと溢れるようになればいいのだが、そういう方向を目指すBlogは相変わらずほんのわずか。日本のBlogは、そちらに向かっては進化していないように思える。残念ながら今のところ、僕の期待は裏切られたのだな、というのが正直な感想なのである。

専門家における日米の気質の違い

CNET Japanで連載していたとき、Googleの株式公開のあり方の是非を巡ってBlog上で磯崎さんと議論になったことがあった。それで、磯崎さんからいただいたトラックバックに対して僕が「素晴らしい内容のトラックバックを・・・」というようなことを書いたとき、「磯崎さんが書いていることは専門家にとっては当たり前のことで、そんなこと素晴らしいなんていうのはお前がバカだからじゃねーか」みたいな意味のコメントを貰ったことがある。僕の偏見であるが、このコメントは相当悪質だと思い、本当にがっかりしたな。コメントを書いた人は、かなりのレベルの専門家に違いなく、日本の専門家における「言論の閉鎖性」を象徴するようなコメントに思えたから、がっかりしたのだ。
日米の専門家を比較して思うのは、日本の専門家はおそろしく物知りで、その代わりアウトプットが少ない。もう公知のことだから自分が語るまでもなかろうという自制が働く。米国の専門家はあんまりモノを知らないが、どんどんアウトプットを出してくる。玉石混交だがどんどんボールを投げてくる。そんな対比をすごく感じる。
研究者でもそういう違いがある、と科学者の友人に聞いたことがある。日本の研究者は、自分の研究領域の周辺でどんな研究がなされているのか恐ろしくよく知っている。米国の研究者はあんまり知識はないが、考えたことをどんどん突き進めて行く。モノを知らないから、ずいぶん研究したところで、それに気づくみたいな無駄があるが、大切なのは自分の頭で考えて研究するプロセス自身にあるのだから、確率的にブレークスルーが出やすい。そんな話だったかと思うが、何だか相通ずるところがある。
モノを書くことは恥をかくことである。恥をかきたくなければ何も発表せず、読むだけ読んで人のことを「バカだなぁ」とうそぶいていればいい。
ただインターネットが少しずつ変えていく新しい常識、そしてインターネットを当たり前の存在として育った若い世代がだんだんと影響力を持っていく新しい世界は、既得権益に守られたそんな似非専門家を少しずつ駆逐するプロセスなのだと、僕は信じたいのである。